2013年10月13日日曜日

合理的で論理的で科学的で効率的で経済的な自由が生み出す不自由(やっぱりまだ仮題だけど昨日の続き)

 小咄をひとつ。
  船長が船員たちを集めて訓示を垂れた。
 「君たちは栄えある○◎号の乗組員である。優秀な君たちは、今船から海に放り出されたとしても、当然泳ぐことができるだろう」
  船員たちは応えた。
 「ちょろいちょろい」
 「泳げないやつとかいるの?」
 「プールでしか泳いだことないけど、ま、いけるっしょ」
  船長はたのもしげな船員たちに命令を下した。
 「実はこの船は今、危機的状況にある。少しでも積荷を減らさなくてはならない。そこでだ、優秀な選ばれた存在である乗組員諸君は、今から海に飛び込んで自力で泳いでくれ」
  船員たちは次々にどぶんどぶんとび込んだ。
 「うお、水冷たすぎ!」
 「こんなに波が荒いなんて、聞いてないよ〜」
 「だめだー、やっぱ泳げねー」

  なんの話かというと、十年ほど前によく見られた日本の風景である。今でもやってるんだっけか。
 ポイントは「お前たちは優秀だ」と持ち上げるところ。
 自分が凡庸だとすすんで認めるような人は少ないからね。 そういう気持ちにつけこんでやるといろいろやりやすい、てのは詐欺のイロハだけど、これから述べることは詐欺じゃない。それだけに余計タチが悪い。

 昔は「信用」というものが今よりもずっと、社会の隅々まで機能していた。繰り返しになるけど、もともと「信用」というものは凡庸な人を救うセーフティ・ネットのような役割をしていた。 もちろん非凡な人の方がやすやすと「信用」を得ることができる。すごい金持ちの家のボンボンだったり、親が超有名人だったり、宝くじで一等を当てたり、甲子園で優勝した野球部の補欠だったり、ミス・キャンパスでグランプリだったり、そういう努力いらずの「非凡」だって非凡のうちだ。信用してくれる人はしてくれる。
  しかし、そうした非凡な部分が全くない、裕福でもなく知名度もなく、運動神経もなければ美しくもなく、そんな凡庸な人間でも地道に働いてさえいれば、前述の人たちと同程度か、ともするとそれ以上の「信用」を獲得することができた。具体的にいうと、信用金庫なんかはそういう凡庸な人を優先して融資していた。(バブルがはじけるまでは)
  ところが、自らの「非凡」を頼みとする人たちには、そうした世の中の「信用」の在り方が気に食わなかった。だって、せっかく「非凡」に生まれついたのに、凡庸な連中と同レベルだなんて、まったくもって「不公平だ!」てわけ。そういうことをいう人は、「お金を人より持ってる」方たちが特に多かったので、「世の中結局金だ!」という考えがバラまかれた。 いや、それまでもそういう考えはあったけどね。問題はそれが「思想」という形をとっちゃったってこと。
 新自由主義、とか呼ばれてるのがそれ。
 思想の形をとってるだけに、とっても論理的で合理的で効率的で経済的で科学的な感じに仕上がっている。おかげで水飴にたかるアリのように、陸続と群がる人たちが足を取られた。今でもとられっぱなし。
 だから「信用」なんて非論理的で非合理的で非効率的で非経済的で非科学的なしろものは、金銭に置換えた方がいいってことになった。インセンティブってやつね。人は自分の利益にならないと行動しないし、人の行動の裏には必ず利益を求める動機がある、ということ。文句のつけ用がない位正しい。だから自らの「非凡」をわずかでも信じたい人たちは、論理的で合理的で効率的で経済的で科学的な思想に群がり、それだけでなく「信用」というものをどんどんたたき壊していった。
  その昔、人は「信用」を得るために「がんばって」いた。凡庸な人は特に。
  でもそんなことは非論理的で非合理的で非効率的で非経済的で非科学的だとして打ち捨てられてしまった。
  かくして「信用」を失った人たちは、互いの言葉を信用できない三人の囚人と同じ状況におかれることになっていった。
  すべてを金銭に換算することで「信用」を廃棄し、新たなる自由を得るという思想は、こうして差別を培養する菌床となったのだった。  ま、新自由主義の人たちは差別を否定しているけどさ、いちおう。 そんなのは鼻くそとばしながら「お部屋をきれいに!」て言ってるようなもんで、まったく説得力を持たない。
 社会の現象を全部経済のみで語り、とにかく金を稼ぐことが「がんばること」とイコールで結ばれた時、互いの「信用」は黄ばんだ名刺のように打ち捨てられ、差別を平気で口にするだけでなく己の存在すべてをそこにあずけるような、不信にとらわれた囚人たちを誕生させてしまったってわけ。

  ………………
 すいません、まだ続きます。次回はインターネット
  新自由主義批判の再構築―企業社会・開発主義・福祉国家

0 件のコメント:

コメントを投稿