昨日の続き。
人間を人間たらしめる構造は無意識下に沈んでいるものだけど、それが表層意識に上昇するとろくでもないことになる。
上昇するきっかけは互いの不信、すなわち「信用」の喪失だ。
互いに信用があるなら、言葉でお互いの背中について教えあえばいいだけなので、パラノイアックな構造が浮かび上がることはない。互いの信用を失い「囚人」となるなら、同時に行動し、同じ答を口にすることでしか、お互いを認めることができなくなるのだ。
これは人間存在の構造と相似しているため、よく「人間は差別から逃れられない」という勘違いを生みやすい。そういうことを訳知り顔で大学教授あたりが口にするのを見ると、まったく頭が痛くなる。
人間存在の構造は言語以前のものなので、それについて語り合うことはできない(前回の設問での最初の条件で、囚人たちは話すことを禁じられていた)が、互いに語ることができるならばそうした構造が浮かび上がってくることはないのだ。
さて、「信用」ってなんだろう。それについては本宅の方で再三にわたって述べている。こことかこことかこことかここ。
信用ってのは、「お互いふつーの人間だね」ってこと。人間存在の構造は本来それを支えている。
それが失われるというか、自ら廃棄してしまったならば、もう一度似たような構造を組み立てることになるが、その際に「言葉」(お互いの会話)を同時に排除してしまいがちになる。
それゆえ、「信用を棄てた人たち」には「言葉」が通じない。どんなに論理的に説得したとしても、それを「信用」することはない。「信用を棄てた人たち」はあくまで自分と同じになること、つまり「信用を棄てる」ことを他の人たちに求める。
言葉や論理は関係ないから、驚くほど高学歴だろうが、天才的知性の持ち主だろうが、ひっかかるときはひっかかる。フォン・ノイマンは超天才だったが、レイシストだった。
信用が人間存在の構造に由来するなら、それはごく当たりまえでふつーでどこにでもある、すなわち「凡庸」なものだ。
ところが、この「凡庸」を嫌悪し、排除しようとする動きがある。
ひとつは新自由主義的経済とその思想。
もうひとつの方は、というかこっちが本星なんだけど、インターネット。
……………
すみません、また次回に続きます。
松山千春 凡庸
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