2014年12月8日月曜日

『失敗の本質』には本質的なことが書かれていないように思うのだけど

戦史 (中公クラシックス)
 紀元前四一五年、メロス島(現在のミロス島)において虐殺が行なわれた。成人男性は皆処刑され、女と子どもはすべて奴隷とされた。
 まだまだ野蛮な時代だったから、そうしたことはちょくちょくあったのかもしれないが、問題はこれをやらかしたのが「アテネ」だった、ということだ。
 アテネと言えば、ギリシャの都市国家で、原始的とはいえ民主的な政治を行い、ソクラテスやプラトンを生んだ国だ。
 この事件は、ペロポネソス戦争の余波のようなものだった。しかし、ここにはアテネが、ペルシャとは違って、「帝国」たりえなかったということが象徴されている。



 帝国って何だろう。
 ダースベイダーみたいな帝王が支配してる国かな、と思ってしまうかもしれないけど、そんなに単純ではない。
 帝国ってのは、本来その国のものではない外部に支配を及ぼし、その外部の被支配者たちに、支配を「納得」させてしまうものだ。
 アテネの後にメロス島を支配したのはローマ帝国だが、アテネのやらかした不始末の尻拭いをして、住民を帝国へとすんなり帰順させた。
 軍事力による即物的な恐怖だけでは、こういう具合にはいかない。
 以前、アグリコラについてのエントリーでもふれたが、支配というのは権力による抑圧や、軍事力による恐怖だけではなしえないのだ。
 その支配を住民に「納得」させる、それどころか喜ばしいものとすら受け取らせる、言わば「コミュニケーション能力高め」なのが「帝国」というものなのだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 
(中公文庫)
 そうした「帝国」にとって、キリスト教というコミュニケーション能力バリ高な宗教は、もってこいのツールだった。もちろん、その辺はイスラム教だって負けてないけどね。
 それに比べて、ナチズムとか、国家神道とか、そこいら辺りは今風に言うなら「コミュニケーション障害」のレベルだったのだ。
 
『失敗の本質』って本は、戦争のやり方のあれこれに、お役所仕事的な細々とした失敗が積み重なったとか、組織的な腐敗に対して抵抗力がなかったとか、瑣末で、それでいてわかりやすく、とにかく受け容れやすいことばかり書かれている。次やるときは、こういうちょっとしたことに気をつければいいんだな、簡単簡単!と、自動車教習所でいつも同じとこをぶつけてる人みたいな、そんな感想を読者に与えてしまいがちだ。

 失敗についての「本質」的なものとは本来、その当人には到底受け容れがたい、とんでもなく苦い漢方薬みたいなものだ。自分では自分のことを、かなりイケてる人気者だと思ってる人が、実はまったく「コミュニケーション能力」を欠いているがため、嫌われていたとしたらどうだろう。その人の「失敗の本質」は、その認識の錯誤にあるのは自明のことだが、なかなかそれを認めようとはしないだろう。
 その錯誤に、戦前の日本は目を背け続けてた。(今もかな?)
 これじゃもう、戦争なんかやってもやんなくても、失敗するのが目に見えてるよね。
 それをまあ、「欧米だってやってたじゃないか」「力を持って侵略するのが当時の流儀だったのだ」だのとわめくのは、なーんにもその本質がわかってない、てことなわけやね。

 もちろん帝国だって永遠に「納得」させられるわけもないし、いずれは破綻するんだけど、最初の一歩からけつまづいて失敗してるようなやつが「帝国」のふりなんかしたって、カバがフィギュアスケートをするようなものだったのだ。みっともない。

 そんなわけで、失敗の本質は、大日本帝国がぜーんぜん「帝国」じゃなかったことにあったのだった。
 ま、成功してても困るけどさー。
 ちなみに、「ていこく」という発音は、フランス人には「テュ・エ・コキュTu es cocu」すなわち「お前は寝取られ男だ」と聞こえるそうな。

0 件のコメント:

コメントを投稿