戦史 (中公クラシックス) |
まだまだ野蛮な時代だったから、そうしたことはちょくちょくあったのかもしれないが、問題はこれをやらかしたのが「アテネ」だった、ということだ。
アテネと言えば、ギリシャの都市国家で、原始的とはいえ民主的な政治を行い、ソクラテスやプラトンを生んだ国だ。
この事件は、ペロポネソス戦争の余波のようなものだった。しかし、ここにはアテネが、ペルシャとは違って「帝国」たりえなかったということが、象徴的に現れている。
帝国って何だろう。
ダースベイダーみたいな帝王が支配してる国かな、と思ってしまうかもしれないけど、そんなに単純ではない。
帝国ってのは、本来その国のものではない外部に支配を及ぼし、その外部の被支配者たちに、支配を「納得」させてしまうものだ。
アテネの後にメロス島を支配したのはローマ帝国だが、アテネのやらかした不始末の尻拭いをして、住民を帝国へとすんなり帰順させた。
軍事力による即物的な恐怖だけでは、こういう具合にはいかない。
以前、アグリコラについてのエントリーでもふれたが、支配というのは権力による抑圧や、軍事力による恐怖だけではなしえないのだ。
その支配を住民に「納得」させる、それどころか喜ばしいものとすら受け取らせる、言わば「コミュニケーション能力高め」なのが「帝国」というものなのだ。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫) |
それに比べて、ナチズムとか、国家神道とか、そこいら辺りは今風に言うなら「コミュニケーション障害」のレベルだったのだ。
『失敗の本質』って本は、戦争のやり方のあれこれに、お役所仕事的な細々とした失敗が積み重なったとか、組織的な腐敗に対して抵抗力がなかったとか、瑣末で、それでいてわかりやすく、とにかく受け容れやすいことばかり書かれている。次やるときは、こういうちょっとしたことに気をつければいいんだな、簡単簡単!と、自動車教習所でいつも同じとこをぶつけてる人みたいな、そんな感想を読者に与えてしまいがちだ。
失敗についての「本質」的なものとは本来、その当人には到底受け容れがたい、とんでもなく苦い漢方薬みたいなものだ。自分では自分のことを、かなりイケてる人気者だと思ってる人が、実はまったく「コミュニケーション能力」を欠いているがため、嫌われていたとしたらどうだろう。その人の「失敗の本質」は、その認識の錯誤にあるのは自明のことだが、なかなかそれを認めようとはしないだろう。
その錯誤に、戦前の日本は目を背け続けてた。(今もかな?)
これじゃもう、戦争なんかやってもやんなくても、失敗するのが目に見えてるよね。
それをまあ、「欧米だってやってたじゃないか」「力を持って侵略するのが当時の流儀だったのだ」だのとわめくのは、なーんにもその本質がわかってない、てことなわけやね。
もちろん帝国だって永遠に「納得」させられるわけもないし、いずれは破綻するんだけど、最初の一歩からけつまづいて失敗してるようなやつが「帝国」のふりなんかしたって、カバがフィギュアスケートをするようなものだったのだ。みっともない。
そんなわけで、本当の「失敗の本質」は、大日本帝国がぜーんぜん「帝国」じゃなかったことにあったのだった。
ま、成功してても困るけどさー。
ちなみに、「ていこく」という発音は、フランス人には「テュ・エ・コキュTu es cocu」すなわち「お前は寝取られ男だ」と聞こえるそうな。
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