プルースト/写真 |
しかしそれは、語られれば語られるほど、見出されるのはプルーストの秘めたる「快楽」ばかりで、プルーストが音楽や絵画へと注いだ視線、カプチン修道士が十字架を見つめるような熱い視線とは、その温度差が明らかになるばかりだ。
プルーストは写真を撮り、収集し、見せびらかし、交換する。プルーストにとっての写真は、あくまで「快楽」のための「ツール」でしかないのだ。
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快楽には写真と似たところがある。目の前にいる愛する人の写真を撮っても、あとで家に帰り、心中の暗室が自由に使えるときになって現像するまではそれはただのネガにすぎない。そして誰かが側にいるときは暗室の入口には「使用禁止」の札がかかっている。
《花咲く乙女たちのかげに》(注:『プルースト/写真』からの孫引)
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だいたいこの時代から、庶民にはまだまだ高嶺の花とはいえ、写真というものが大量に生産されるようになる。
大量の写真は修正されることなく人目にさらされ、それは本来「写っていて欲しくないもの」までも、否応なく見せつけられることとなる。
一八九〇年八月、プルーストの母親は息子に送った自身の写真について、こう手紙に書き添える。
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「あなたは写真をちゃんと見なかったから変だと思ったのです。口がくぼんでいるのは写真技師のせいで、(…)まったく腹が立つこと。(…)あれこれポーズをするよりもスナップショットの方がずっとよかった。目が疲れてしょぼついているからあなたにはおかしく見えたのね」
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写真がその「写す」ということの、もう一つの機能を発揮し出したとき、プルーストも、そして同時代の人々も戸惑ったに違いない。
そこには「写ってはならないもの」が写っていたからだ。
と、ここで「心霊写真」へと話題を移そう。
巷間、心霊写真と呼ばれるものはいろいろあるが、おおよそ「どうでもいい」写真である。霊が写っているのでなければ、スナップや記念写真としてすら退屈なものばかりだ。
しかし、どうでもいい写真だからこそ、そこに「写ってはならないもの」が写る、いわば写真というものの「業」のようようなものが如実に顕れるのだ。人々はそこに過剰なリアルを感じ、恐怖する。
別に霊だけに限らない。醜く歪んだほお、どこを視ているのはわからない眼、だらしなく開かれた口、いつの間にか増えたシワ、などなど。
さらにはピンぼけで輪郭が不鮮明になり、手ぶれで身体は奇妙に歪み、家や樹々は震え、逆光で何もかもが塗りつぶされたりもする。
それでもそれは写「真」であり、何ものかが写っていることにまちがいない。
すると、そうしたゴミ同然の切片を愛し、そこに「真実」を見出す人間も出てくる。
F.ベーコン”ベラスケスによる教皇 インノケンティウス10世の肖像” |
ベラスケス”教皇インノケンティウス 10世の肖像” |
上掲の画像は、フランシス・ベーコンによる『ベラスケスによる教皇インノケンティウス十世の肖像』と、そのモデル(?)になった絵画である。
ベーコンは、このオリジナルのベラスケスを、「一度も見ていない」という。
絵を描く前に参考にしたのは、とある雑誌に載ったモノクロ写真の切れっ端だったそうだ。そして、「もし本物を見ていたらこのようには描けなかった」と語る。
色彩すらなく、粒子の荒い、輪郭すら不確かな写真こそが、ベーコンにとって「真実」を、人が目にしながらも即座に意識から消し去るたぐいの「真実」、決して写し出されてはならないはずの「真実」、そうしたものを眼に映してくれたのだ。
ベーコン"Two Figures"(左)と マイブリッジの”レスリング”(右) |
しかしその「何か」は、デジタルカメラが普及することで、急速に失われていくことだろう。
もう誰も、写真に脅かされることはない。
手ぶれも逆光も色調も補正される。気に入らない写真は、かけらも残さず消去される。
見たくもないものを見せられることはなく、「写ってはならないもの」が、自らの死後に残される心配もない。
悪意によって欲望される写真すら、やがてはその姿を美しく変えるだろう。
デジタルによって心霊写真は撲滅され、写真の上に幽霊の居場所はなくなる。
幽霊を写す機能を失った写真は、この上なく美しいものとして顕れる。「死ぬまでに行きたい! 世界の絶景 」などと題され、存分に加工されて人々を魅了する。
しかしそれによって、「写ってはならないもの」の記憶を消すことは可能だろうか。
それはまだちょっとわからない、ので保留としたい。
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