『フェルメールとスピノザ』において、ジャン=クレ・マルタンは、スピノザの自画像と、フェルメールの『天文学者』を比較し、これはスピノザがモデルではないか、と主張する。
天文学者 |
スピノザの自画像 |
地理学者 |
スピノザはレンズ職人として生計を立て、フェルメールは顕微鏡の開発者レーウェンフックと親交があった。
という話はさておいて、フェルメールが絵を描くときにカメラ・オブスクラを使用したかどうかの当否によらず、この二人はこの時代において、「レンズを透してモノを視る」ということをしていたと思われる。
水晶体だけによらず、身体の外部の透明な物体を透して網膜の投影された映像は、普段に視ている風景とは違って見える。
大きいとか小さいとか、逆さに見えるとかだけではない。
よりいっそう「美しい」のだ。
「写す」ということは、対象をよりいっそう美しくすることでもあるのだ。
セメイオチケ〈1〉 記号の解体学 (1983年) |
セメイオチケ <2> 記号の生成論 |
とある王宮の壁を美しく飾るにあたり、中国人の装飾家と、ビザンチンの神秘主義者が呼び寄せられた。
二組の職人たちは、中仕切りの施された王宮の部屋で、それぞれに部屋の壁を飾ることになった。完成したところで互いを比べ、より勝る方を採用し、負けた側の壁を塗りつぶして勝った方に改めて飾らせる、という趣向である。
人々は、中国人の優位を口にした。当時、美と言えば中国がその中心とされていたのだ。
やがて制作に当てられた期日が来て、中仕切りを外して互いを見比べることとなった。
中国人の造った壁は、一面に細かな細工が施され、人々はさすがと感嘆した。
それに対し、ビザンチンの神秘主義者は、壁一面をよく磨き立てた鏡に仕上げていた。
その鏡には、相対する中国人の造った壁が映され、それは現物よりも一層美しいものに見えた。
勝負は引き分けとなり、褒美はそれぞれに与えられた。
鏡であれレンズであれ、練達の画家による写生であれ、ものを「うつす」ことは、世界をより「うつくしく」することでもあるのだ。
それは写真においても変わるものではない……はずだったのだが。
明日に続きます。
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