2014年12月21日日曜日

写真を見ながら絵を描くのはただらくちんなだけじゃないのまたつづき

 以前本宅のほうで、フェルメールとスピノザは同じ時期に同じ町に住んでいて、ほんとに面識がなかったのだろうか、というエントリーを書いた。
フェルメールとスピノザ』において、ジャン=クレ・マルタンは、スピノザの自画像と、フェルメールの『天文学者』を比較し、これはスピノザがモデルではないか、と主張する。

天文学者
スピノザの自画像
地理学者

 ……おお、なんという説得力。個人的には地理学者の方が似てるように思うけど。
 スピノザはレンズ職人として生計を立て、フェルメールは顕微鏡の開発者レーウェンフックと親交があった。
 という話はさておいて、フェルメールが絵を描くときにカメラ・オブスクラを使用したかどうかの当否によらず、この二人はこの時代において、「レンズを透してモノを視る」ということをしていたと思われる。
 水晶体だけによらず、身体の外部の透明な物体を透して網膜の投影された映像は、普段に視ている風景とは違って見える。
 大きいとか小さいとか、逆さに見えるとかだけではない。
 よりいっそう「美しい」のだ。
「写す」ということは、対象をよりいっそう美しくすることでもあるのだ。

セメイオチケ〈1〉
記号の解体学 (1983年)
セメイオチケ <2> 
記号の生成論
  そのことについて、ジュリア・クリステヴァの『セメイオチケ』で、印象的な挿話を読んだことがある。
 とある王宮の壁を美しく飾るにあたり、中国人の装飾家と、ビザンチンの神秘主義者が呼び寄せられた。
 二組の職人たちは、中仕切りの施された王宮の部屋で、それぞれに部屋の壁を飾ることになった。完成したところで互いを比べ、より勝る方を採用し、負けた側の壁を塗りつぶして勝った方に改めて飾らせる、という趣向である。
 人々は、中国人の優位を口にした。当時、美と言えば中国がその中心とされていたのだ。
 やがて制作に当てられた期日が来て、中仕切りを外して互いを見比べることとなった。
 中国人の造った壁は、一面に細かな細工が施され、人々はさすがと感嘆した。
 それに対し、ビザンチンの神秘主義者は、壁一面をよく磨き立てた鏡に仕上げていた。
 その鏡には、相対する中国人の造った壁が映され、それは現物よりも一層美しいものに見えた。
 勝負は引き分けとなり、褒美はそれぞれに与えられた。

 鏡であれレンズであれ、練達の画家による写生であれ、ものを「うつす」ことは、世界をより「うつくしく」することでもあるのだ。
 それは写真においても変わるものではない……はずだったのだが。

 明日に続きます。

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