アルゼンチン経済史 (1974年) (ラテン・アメリカ経済選書〈2〉) |
アルゼンチンは一八九〇年の恐慌から一八九四年に回復基調に乗る。
日本は一八九九年に第一次恐慌にみまわれる。「第一次」とは後になって名づけられたもので、もちろんその次がある。続く一九〇〇年には第二次恐慌が起こる。
日本政府は増税し、大蔵省・日銀はともに緊縮財政をとる。その年さらに北清事変(義和団事件)へと出兵。戦費調達のために三度目の増税をする。
一九〇三年からアルゼンチンは繁栄の時代へと入るが、日本は一九〇四年に日露戰争、かろうじて勝ちはしたが経済は安定感を欠き、一九〇七年にはまたぞろ恐慌となる。
で、一位がどこだったかというと日本である(86.6%)。日本も一次大戦で火事場泥棒的に利益をかすめ取るなどし、バブルめいた景気にわいていた。
一九二七年、アルゼンチンは再び金本位制復帰を果たすが、同年日本は片岡蔵相失言により、昭和になって早々に金融恐慌に見舞われる。
そして、一九二九年、あの歴史的な「大恐慌」起きた。
アルゼンチンは再び金本位制を停止。だが自前の恐慌で頭を下げたかっこうになっていた日本は、アルゼンチンほどには深刻な打撃を受けなかった。
一九三〇年アルゼンチンでは軍事クーデターが起きた。地主層の支持を受けた軍事政権は通貨供給の拡大を図り、アルゼンチン国民銀行は二億ペソを上限に各銀行の手形を再割引することになる。
一九三一年、日本軍は満州事変を起こす。さらに第二次若槻内閣は総辞職し、犬養毅が政権を握ることになる。蔵相高橋是清はすぐさま金再禁輸し、金本位制を離脱。日銀貸出しによる通貨供給の拡大、すなわちリフレ政策を行う。
アルゼンチンは保守派へと民政移管されたが、イギリスから関税制度改正を迫られ、対英従属的な貿易協定を結ぶハメになる(ロカ・ランシマン協定)。
さて、第二時世界大戦が起きると、ずっと対英従属路線を走ってきたアルゼンチン政府は、なぜか連合国と枢軸国に対して中立的な立場を取るようになる。一度は連合国よりの政権が出来かけたが、そこでまた軍事クーデターが起こる。この時、軍事政権の国家労働局長に就任したのが、ペロン大佐である。彼は二次大戦後労働党から出馬し、55%の得票率で大統領となった。
このペロンの妻こそがエヴァ・ペロン、通称「エビータ」である。
後に彼女を主人公にしたミュージカルが大ヒットし、マドンナ主演で映画化もされた。
一九八二年にアルゼンチンとイギリスは、「ハゲの大男が二人で櫛を取り合う」(ボルヘス)ようなフォークランド紛争を起こすのだが、実はこのどつき合いが始まった時、ロンドンではミュージカル『エビータ』が上演中だったそうな。
こういう時日本だと、すぐさま「自粛」したりするわけだが、ロンドンではそのまま上演された。イギリス人というのはそういうものである。
このミュージカルは途中、主人公のエビータが啖呵を切る場面がある。
「うるさい!アルゼンチンはイギリス抜きでやったるわい!!」
というようなものである。
舞台でいつも通り主役がその台詞を口にしたとき、観客席からは「ぷぷ」「うふふふ」「くすくす」と笑い声が聞かれたという。ジョンブルというのはそうしたものである。
現在、アルゼンチンは通貨危機からハゲタカ・ファンドの餌食となり、六度の破綻を経験し、今も危機的状況にある。
「豊かな大地、天然ガスを有し、五つのノーベル賞を受けるほどに教育された国民があり、三〇年代には世界で六番目の強国とされたアルゼンチンが、半世紀の間どのようにその富を浪費してしまったか」については今も諸説ある。
しかし、資源も食料も(自給率300%)もたっぷりなこの国は、破綻はしても国内で暴動が起きるでもなく、餓死者の死体で河が堰き止められることもない。
現在大統領を務めるクリスティーナ・フェルナンデスは前大統領の夫人でもあり、エバ・ペロンの再来ともいわれている。
ひとまずは、こんなところで。
メモ:このエントリーを書いた2カ月後、アルゼンチンの大統領にはマウリシオ・マクリ(中道右派)が就任した。
返信削除