二〇一五年十月二十一日は、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもって、過去からタイムマシンがやってくるはずの日だったそうだ。こういうお遊びで盛り上がるというのは、割と嫌いじゃない。
ところでこのタイトル、直訳すると「未来へ向かってバックしろ!」なわけだが、実は昔の日本人の未来観がそうだったりする。
「サキ」という言葉は、ここから「先」でもあり、「先」にあったことでもある。「先」が過去をあらわすのは、「先の副将軍水戸光圀公」という決め台詞でおなじみだ。ちょっと前の過去を「さっき」というのもそうだろう。「アト」にしても「後」と漢字を当てるわりには、「アトになって考える」と未来のことをあらわしたりする。
日本人にとって、未来とは背後に広がるもので、過去の側へ顔を向けながら後ずさりに入っていくものだ、という時間観念がここに現れている——という論文を勝俣鎮夫という人が書いているそうな。
そしてその論文のタイトルが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』!!
なんじゃそら。
とまあ、いきなり昔の日本に引き寄せて語ってしまったが、脅かされたアメリカザリガニの如く、後じさりに未来へと尻から突っ込んでいくという時間観念は、別に日本の専売特許ではない。
だいたい古代ギリシアがそうだし、ホメロスもそのように書いている。さらにはヘブライ語でも過去を意味する「ケデム」は前を意味し、未来を意味する「アハリート」は後を意味するのだそうだ。
また、南米アンデスに住むアイマラ族も過去と前方は同じくnayraと呼び、未来と後方はqhipaと呼ぶそうだ。
近代以降、未来は「前方」にあるのが当たり前になっている。
しかし、思想家にとってはそうでもなかったりする。
新しい天使Angelus novus |
…………
「新しい天使」Angelus novus と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれており、その天使は、彼がじっと見つめているものから、今まさに遠ざかろうとしているかのように見える。……
……彼はただ一つの破局catastrophyを見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎあわせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園paradiseのほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来の方へと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、この嵐なのである。
ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫) |
(文中ボールドは筆者による)
有名なベンヤミンの「歴史の天使」である。
意に反し、背後へと天使を吹き飛ばす「嵐」は、通常「進歩」と呼ばれてしまっている。
では、普段意識することなく、前方へと歩いていくから「未来」も前にある、とする「常識」とはなんなのか。
いやすでに、容赦なく瓦礫は積み上げられ、それは目の前にありながら手を出すこともできず、「未来」という名の「後方」へと吹き飛ばされている。その現状を見れば、「未来」が目の前に広がっているなどと述べるのは、あまりにのほほんとしすぎているだろう。
破局catastrophyを目の前にしながら、美しい未来を前方へと描くものがいたなら、きびすを返して背を向け尻を向け、臭い一発をひっかけてやればいい。
Patrick Bokanowski, L'Ange
ボカノウスキー『天使』
0 件のコメント:
コメントを投稿