たとえば、夫が三時間かけて餃子を作り、それをFacebookにあげて“いいね”をもらってご満悦。それを見て妻がムカムカ、という話。
いやー、三時間もかかる餃子って何が入ってるんだとか興味は尽きないが(皮から作ったって普通そこまでかからんと思うが)、それに対してムカつく妻にも「ほっといたれや」と思わなくもない。
確かに、日々の家事、料理などは毎日休みなく途切れることなく続けなくてはならないもので、冷蔵庫の中身がしょぼかろうが、買いものにいく時間も金も余裕がなかろうが、少々頭が痛かろうが、風邪気味で熱があろうが、仕事でストレスがたまって脳みそが動かなかろうが、成し遂げねばならないことなのだ。しかも、どんな状況でそれが行われようと、それは「やって当たり前」のことで、文句を言われることがあってもほめられることは滅多にない。
ちょいと気が向いたときに三時間かけて餃子を作り、「料理しました」みたいにドヤ顔されても、こらこらそれは違うぞと言いたくはなるだろう。しかし、もしそれを夫に言ったとしても、心外な顔をされるだけで、言った側のイラだちを理解することはまずあるまい。
ここで妻は家事を「労働」としてこなし、夫は家事を「仕事」として楽しんでいる。
実はこれ、どちらも正しいし、どちらも間違っている。
そしてそれは、現代社会においての「間違い」と根っこを同じくしているのだ。
ここでもう一度、アーレントによる「仕事」と「労働」の区別を書いておこう。
仕事workとは、その人個人がもつ技でなされるものである。それは実生活よりも「楽しみ」につながるものだ。
労働laborとは、概ね誰もができる肉体的な単純作業によってなされる。それは実生活に直結していて、けっこうめんどくさいものだ。
そして、人間は「仕事」に自由を感じるが、「労働」には不自由を感じる。
まず現代社会において「働く」ことは、「仕事」をすることだとされる。
それは働くということを、実生活ではなく「楽しみ」につなげることを求められる。
「仕事」は「労働」とは違って実生活に直結することなく、「楽しみ」へとつながるもののはずだからだ。
「楽しみ」につなげるというのは、自らの喜びを「仕事」の中に見出すことである。
喜びとは人が生きる目標であり、それは人生の中に見出されるもののはずだ。
喜びを「仕事」の中に見出すことは、自分の人生そのものを、「仕事」の中に投げ入れていくことになる。
しかし、その「仕事」に対する報酬が支払われる時、それは「労働」だったのだとして割り切ることが「美徳」だとされる。「金銭に対して恬淡である」というやつだ。
たとえその実態が「労働」そのものであったとしても、「仕事」としてそれをこなすことが要求され、支払われるのは報酬というよりも「労賃」である。
それなのに「仕事」をしている人たちは、自分たちがしていることは「労働」ではないと心の底で思っているので、「労働運動」のように「賃金アップ」を求めることは恥ずかしいと考えてしまう。
ざっとだが、このようなねじれがあり、そのねじれを利用して現代の「会社」は成り立っている。
> 「『何時間でも働く』というAさんと、『会議があったとしても、子どもの誕生日には早く帰りたい』というBさん。2人の能力は同じ。私が上司なら、Aさんに責任ある仕事を任せるのは当然だ」
>仕事人間の主人公が出世していく人気漫画「課長島耕作」を描いた弘兼憲史さん(68)はこう語る。
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