2015年10月29日木曜日

本当に忘れるためにはまず思い出さなくてはならないが何を思い出せばいいのかわからないということ もしくは『ルック・オブ・サイレンス』についてのつづき

タデウシュ・カントール『死の教室』Umaria Klasa


 カントールの『死の教室』において、人々はそこに「何もかも」が蘇るかのように錯覚襲われる。
 カタコンベのような薄暗い「教室」に、老いた生徒達が集う。男女ともよれよれの黒い服を着て、前方を向いて着席する。
 子供はいない。若者すらいない。
 子供の姿をしたマネキンが持ち込まれるが、それはやがて教室のすみに積み上げられる。
 授業が行われる様子はないが、生徒達は熱心に手を挙げ、答を探し、歌いながら席を立ち、裾をまくって尻を見せる。
 おおよその人々が、そこに「忘れていたもの」を見出すだろう。
 それは忘れていたのではなく、どうしても記憶できなかったものなのだが。

 人間はすべてを記憶することは出来ない。
 記憶できないものというのは、だいたいにおいて「始まり」に関わるものだ。夢についての記憶はほとんどがその終りであり、「始まり」を記憶することが出来ないことからもわかる。出来たと思ってもそれは錯覚でしかない。
 どうしても記憶できないものとは何か。
 それは「権力」の始まりである。

…………
 これらの“権力”
 に対抗
 するのは
 小さく
 貧しく
 無防備な
 しかし、個人的な
 人間の
 生活の
 堂々たる
 歴史である。
 (タデウシュ・カントール『忘却をまぬがれるために』より)
…………

 我々は「権力」を生み出しながら、その行為を記憶することが出来ない。
 しかし、記憶できなかったものが忘却され、消失するということはない。
 それはある穏やかな日に、唐突に現れることがある。
 たとえば、眼鏡の度を調整している最中の世間話とかで。


 得意げに虐殺の武勇談を語る二人の男の映像は、「何を記憶することが出来なかったか」をそこに映し出している。
 人間は自らの愚かさを記憶できない。
 愚かさを記憶できないことによって「権力」は生み出される。
 それゆえ、記憶できなかったものが目の前に現れると、たちまちそれはくたばってしまう。
 魔法が解けた怪物のように。

『ルック・オブ・サイレンス』における、「記憶できなかったもの」はビデオの中の最後の記念撮影によくあらわされている。
 それは誰もが求めていたはずのものだ。
 ピース。

 さらに次回に続きます。

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