タデウシュ・カントール『死の教室』Umaria Klasa
カントールの『死の教室』において、人々はそこに「何もかも」が蘇るかのように錯覚襲われる。
カタコンベのような薄暗い「教室」に、老いた生徒達が集う。男女ともよれよれの黒い服を着て、前方を向いて着席する。
子供はいない。若者すらいない。
子供の姿をしたマネキンが持ち込まれるが、それはやがて教室のすみに積み上げられる。
授業が行われる様子はないが、生徒達は熱心に手を挙げ、答を探し、歌いながら席を立ち、裾をまくって尻を見せる。
おおよその人々が、そこに「忘れていたもの」を見出すだろう。
それは忘れていたのではなく、どうしても記憶できなかったものなのだが。
人間はすべてを記憶することは出来ない。
記憶できないものというのは、だいたいにおいて「始まり」に関わるものだ。夢についての記憶はほとんどがその終りであり、「始まり」を記憶することが出来ないことからもわかる。出来たと思ってもそれは錯覚でしかない。
どうしても記憶できないものとは何か。
それは「権力」の始まりである。
…………
これらの“権力”
に対抗
するのは
小さく
貧しく
無防備な
しかし、個人的な
人間の
生活の
堂々たる
歴史である。
(タデウシュ・カントール『忘却をまぬがれるために』より)
…………
我々は「権力」を生み出しながら、その行為を記憶することが出来ない。
しかし、記憶できなかったものが忘却され、消失するということはない。
それはある穏やかな日に、唐突に現れることがある。
たとえば、眼鏡の度を調整している最中の世間話とかで。
得意げに虐殺の武勇談を語る二人の男の映像は、「何を記憶することが出来なかったか」をそこに映し出している。
人間は自らの愚かさを記憶できない。
愚かさを記憶できないことによって「権力」は生み出される。
それゆえ、記憶できなかったものが目の前に現れると、たちまちそれはくたばってしまう。
魔法が解けた怪物のように。
『ルック・オブ・サイレンス』における、「記憶できなかったもの」はビデオの中の最後の記念撮影によくあらわされている。
それは誰もが求めていたはずのものだ。
ピース。
さらに次回に続きます。
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