2015年10月14日水曜日

家事は「仕事」か「労働」か

 ネットでこんな記事を見かけた。

有能な人たちが「働きたくない」と嫌がる会社の特徴。

 しかしまあ、手を替え品を替え、語り口やさばき方を変え、似たようなことを何度も繰り返して書くもんだな、というような感想いだきつつ、ふむふむと薄い目で読み流していたら、なんだか突然さだまさしの『関白宣言』が脳内BGMでもって流れ出した。なんつーか、内容がよく似ている。
 そんなわけで、有能な人が嫌がる会社の特徴と、『関白宣言』をちょっと較べてみよう。
 ……と思ったけど、なんか歌詞の引用って、ブログでやると引っかかるそうなので、ただ条件を並べておくことにする。まあ、だいたいは「ははん」と思い当たることと思う。

1.価値観を押しつける

2.間違いを許さない

3.カネで人をコントロールできると思っている

4.せっかちである。

5.統制を好む

 さだまさしはこれを、ダメ男の愛情表現として歌い、大ヒットさせた。
 しかし、似たようなものいいを職場にもってくると、「有能な人たちが働きたくないと逃げ出す」ような会社の特徴になったりする。
 つまりは、「有能な妻に家事をしたくないと思わせる夫の特徴」もほぼこれなわけで、こういう問題は職場だけでなく、いろんなところにひそんでいるわけだ。

家事労働ハラスメント
―生きづらさの根にあるもの (岩波新書)
    ちょっと前に「家事ハラ」にからんで、「家事は『労働』である」というようなエントリーを書いた。
 それから多少の時間がたっているが、相も変わらず家事の問題はAERAあたりで定番ネタで、「家事ハラ」は今も健在だったりする。
  そんな折り、『関白宣言』を思い浮かべつつ、上掲のサイトを読んでいて、たぶんこれらの問題は、「仕事」と「労働」がちゃんとわけて考えられていないことが根っこにあるんじゃないかなあ、と頭に浮かんできた。

 「仕事」と「労働」は、よくごっちゃにされているが、ハンナ・アーレントはこれらをきちんとわけて考えるようにしている。
人間の条件 (ちくま学芸文庫)
    仕事workとは、その人個人がもつ技でなされるものである。それは実生活よりも「楽しみ」につながるものだ。
 労働laborとは、概ね誰もができる肉体的な単純作業によってなされる。それは実生活に直結していて、けっこうめんどくさいものだ。
 そして、人間は「仕事」に自由を感じるが、「労働」には不自由を感じる。
 アーレントはこれに「活動」actionを加え、「仕事」「労働」「活動」をまとめて「活動的生活」vita activaとし、それ以外の思索的な行為を「観照的生活」vita comtemplativaと名づけた。
 しかしまあ、この辺りの考察について、身近に重要性を感じられるのは「仕事」と「労働」の区別だけなので、それ以外のことはうっちゃっておく。

 「仕事」と「労働」がごっちゃになっているのは、なにも日本人だけじゃなくて、欧米でも広く見られることだ。
 しかし、日本はちょっと悪質というか、「わざとやってないか、それ?」な部分がある。
 ぶっちゃけ、賃金についてなんだけど、だいたいにおいてみなさん基本的に「労働はタダ」だと考えているよね。いや、考えたがっている、という方が正しいか。
 でもこれ、世界中がそうだといえばそうだし、少なくとも資本主義を標榜する社会であれば、「労働なんかに金払いたくねーな」と、口には出さねどなんとなく考えている。
 そんな中で日本が「悪質」なのは、資本家だけでなく労働者もそのように考える傾向があり、あまつさえそうした「労働=タダ」を「善なること」として受け容れている、てことだ。
 その価値観は、『母に捧げるバラード』において、如実に語られている。
    で、また歌詞が書けないんだけど、とにかくここで武田鉄矢は、おふくろさんの言を借りて、さぼりたいとか考えるやつは「死ね」、という価値観を「人生訓」として開陳してくれている。

 こうした人生訓はついこないだまで主流であった。そして今まだ、いろんなとこでピンピン生きているのだ。
 
 すんません、次回に続きます。


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