2015年10月18日日曜日

家事は「仕事」か「労働」かもしくはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」と料理について

    昔々、私が詰め襟学生服を身につけていた頃、ハウスのCMで「わたし作る人、ぼく食べる人」とやってたのが問題になり、放送中止となった。
 男女差別云々と解説されたが、正直当時の私には全く理解できなかった。ガキだったからねえ。
 しかし今思うに、「男女差別」というのは当時まだそういう言葉を当てはめるしかなかった、というだけのことで、本当は瞬間的に「かちーん」ときた、というのが理由だったんじゃないかと思う。
 じゃあ、何がどこに「かちーん」ときたのか?

 昔々、私がそろそろ詰め襟学生服を卒業する頃まで、「男子厨房に入らず」という言葉は生きていた。リアルに。
 厨房に入るどころか、ガスでお湯も沸かせないお父さんたちは珍しくもなかったし、お父さんたちはそれを悪いとも思わないどころか、「俺はガスなんかさわったこともない」と自慢するくらいだった。
 まあ、それはそうだったんだが、お母さんの方に難点がなかったわけでもなくて、台所は「女の城」みたくされて、めったに男の子を入れたがらなかった、という事情もある。
 私も自分で料理できるようになったのは、一人暮らしを始めてからだった。

 さて、一人暮らしで料理をするようになると、ものすごく当たり前のことに気づく。
 料理は、自分が料理しないと出てこないこと。
 料理は、自分で失敗しても誰にも文句が言えないこと。
 料理は、食べた後ほったらかしだと誰も片付けないこと。
「あたりまえやん!!」と過去の自分の後頭部にチョップを食らわしたくなるが、実際にやってみないとわからないものなのだ。何がわからないかと言うと、自分がいかに「わかっていない」かということが。
 料理する自分と、料理を食べる自分と、同じ自分でありながら相互にわかりあってはいない。「料理する」ことで「料理する自分」が生み出されないうちは、「料理を食べる自分」は「料理する」ことの「リアル」がわからないのだ。
 そうした「わかっていない」ことが肯定的に持ち出されてきたので、どうでもいいようなラーメンのCMに理屈抜きで「かちーん」と来た人が多かったわけだ。
 おそらくその「かちーん」は、料理を作った後、食べてる人間に「なんか塩っぱいよ?」とか「うーん、一味たらないなあ」とか、なにやら文句を言われたときに感じる「かちーん」と同じようなものだ。

 と、ここで、いきなりヘーゲルの『精神現象学』から引用してみよう。
…………
 ……最初の経験の結果、「われ」という単純な統一体が打ちこわされる。そして、そこに登場してくるのが、純粋な自己意識と、純粋に自立はせず他と関係する意識——物の形をとって存在する意識——である。そのいずれもが意識にとっては本質的である。が、さしあたりこの二つは上下関係の元に対立していて、統一へと還っていく道筋はまだ示されていないから、二つの対立する意識形態として存在せざるをえない。一方が自主性を本質とする自立した意識であり、他方が生命——他にたいする存在——を本質とする従属した意識である。前者が「主人」であり、後者が「奴隷」である。
…………

 これまでヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を持ち出すときは、コジェーヴによる解釈を使用してきた。便利なので。
 しかしヘーゲルは自らの弁証法に普遍性を持たせるため、自己意識の問題としてこれを持ち出してきている。
 すっごく簡単に言うと、「ぼく食べる人」が主人であり、「わたし作る人」が奴隷であって、それは自己(「われ」)の中で「純粋な自己意識」と「他と関係する意識」という形で分裂して顕れるわけである。
 ヘーゲルは、ただ「食べたーい」という自分より、そいつに食べさせる「料理する」自分をもって、自主・自立する存在として自覚を持つべきだ、としている。
 まあ、要するに「大人になれ」ってこと。
 ヘーゲルはそれを一生懸命根元的に解釈している。
 家事なんか一切やんなかっただろうヘーゲルが、よくまあたどり着いたもんだと思うけど。
 しかしヘーゲルは、世界と関わるのは「労働」のみとしている。じゃあ「仕事」は?
 というところでまた次回に

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