ヨーロッパとアメリカはわかるが、なぜそれに日本とアルゼンチンがくっつくのか。それは日本が途上国から先進国にのしあがり、アルゼンチンは逆に先進国から後退してしまったからだ。そうした「境目」を越えた例は、今のところこの二国しかないという。
アルゼンチン経済史 (1974年) (ラテン・アメリカ経済選書〈2〉) |
そういえば『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』とかいう本があった。アルゼンチン政府が財政破綻したのになぞらえ、日本もそのうちそうなると脅した本だ。
そんな風に比較される割には、アルゼンチン経済について知らないな、と思ったのでなんとなく経済史を比較しつつ、メモってみたいと思う。
ウーゴ・ディアスのハーモニカによるタンゴ
さて、一八六八年に日本は明治維新により封建制から中央集権的な国家に姿を変える。一方アルゼンチンも、国内が統一され、近代国家として歩みだしたのはようやく一八六二年になってからだ。それまでは地方独立を求める「連邦派」が強く、肝心のブエノスアイレス州がアルゼンチン連合から離脱したりしていた。
統一当時、アルゼンチンにある銀行らしい銀行と言えば、銀行貨幣局(バンコ・イ・カーサ・デ・モネダ)だけだった。それは統一された翌年にブエノスアイレス州銀行に呼称を変える。
一八六六年、統一早々にパラグアイと戦争。三国同盟に引きずられて巻き込まれたようなものだったが(集団的自衛権っすな)、この戦争をきっかけに、国内の通貨安定を図り、ブエノスアイレス州は兌換部(オフィシアナ・デ・カンピオ)を設立。ブエノスアイレス州銀行の部局となり、州銀行は兌換部が受けとる金に対して銀行券を発行できるようになった。
兌換てのは、金(ゴールド)と紙幣の兌換で、銀行券二五ペソが金一ペソになった。
戦争はパラグアイが敗北し、アルゼンチンへイギリスからの直接投資が増えるとともに、金-紙幣の交換比率で紙幣の方にプレミアが付き、兌換部に金が流れ込んできた。
しかし、一八七三年にオーストリア=ハンガリー帝国に端を発する恐慌が起こり、世界中が不況の海に沈んだ。
ブエノスアイレス州銀行もせっかくの金備蓄を大幅に減らすことになる。
日本でもその年に明治六年政変があった。この時諸外国がちょっかいを出してこなかったのは、その余裕がなかったからだと推測できる。
一八八三年十月、銀行券を金と直結する法律が制定され(国法一三五四号)、アルゼンチンは金本位制に移行する。
当時、金本位制は世界経済の主流だった。
銀本位制だった日本も、日清戦争(一八九四〜九五)の勝利により、清国からの賠償金を金貨で受けとることで金本位制に移行する。
ただアルゼンチンの金本位制は、貿易収支の黒字を背景とした借り入れによって購入する金に支えられたもので、その体制は危ういバランスの上に成り立っていた。
そして一八九〇年にアルゼンチン恐慌が起こり、金プレミアムは瞬間的に209%を記録する。翌年にはブエノスアイレス州銀行が破産した。
しかしアルゼンチン国民銀行を新たに設立し、兌換局(カーサ・ド・コンバシオン)を通して膨れ上がった不換紙幣を回収するにつれ、一八九四年からは回復基調に乗った。一九〇三年頃から第一次世界大戦まで、アルゼンチンは繁栄のときを迎える。
すんません、意外と長くなったんで次回に続きます。
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