2015年2月22日日曜日

【イギリスのヒツジさんたちと資本主義編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が貴族だったか?
When Adam delved and Eve span, Who was then a gentleman?
 上記はワット・タイラーの乱(1381年)を指導したジョン・ボールのアジテーションとして知られている。日本でも平民社堺利彦なんかが引用していたと思う。
 ジョン・ボールは神父だったけど、アダムって農民だったのかなあ。カインとアベルの故事からして、神は牧畜こそを言祝いでいたように思えるんだが。まあ、それはそれとして、このセリフってのはやはり、当時のイギリス農民を煽動するためのものであって、彼らが感情移入しやすいように作られたものなのだろう。つまり十四世紀後半のイギリス農民は、夫が畑を耕し、妻はせっせと「羊毛」をつむいでいたことがここから透けて見える。
 この乱の背景には百年戦争(1337〜1453年)があることはよく知られている。戦費をひねり出すための人頭税などの増税が直接のきっかけなのだが、そのまた背景にエドワード三世の羊毛禁輸があったことは、あまり語られることがない。
 
 イギリスの羊毛の歴史は長い。B.C.2500頃フェニキア人がもたらしたと言われている。それを産業にまで高めたのは、フランスから渡ってきたシトー会修道院だ。獅子心王リチャード一世が十字軍からの帰り道、オーストリアでジョン伯に加担するレオポルド五世に捕らえられた際、シトー会がその身代金をヒツジの原毛で支払ってやったと伝えられている。
 そして、羊毛には当然のごとく高率の税がかけられた。

べああ、べああ、ブラック・シイプ
Baa, Baa, Black Sheep
おまえはいい毛をおもちだろ?
  Have you any wool?
はい、はい、
Yes sir, Yes sir!
ふくろに三ふくろござります。
  Three bags full.
だんなさまに一ふくろ、
One for my master,
おくさまに一ふくろ、
  One for my dame,
だっけどそこらの細道で、
And one for the little boy
べそかくぼっちゃんにゃ、いィやいや
  That lives in the lane.
(訳文は北原白秋『まざあ・ぐうす』より)

 このマザー・グースの歌は、当時羊毛にかけられた高率の税を風刺したものだ、との説がある。三袋のうち二袋、実に三分の二が召し上げになっていたわけだが、実際のところはそれ以上だったらしい。勘のいい人は最後の一文の翻訳がおかしいことに気づくと思うが、昔の原型の歌はBut none for the little boyとなっていて、白秋はそちらの方を採用しているわけだ。
 羊毛はイギリスに富をもたらした。地主たちはハンザ商人を通してフランドルに輸出することで莫大な利益を手にし、位はなくとも貴族のごとくふるまった。彼らは新興貴族gentryと呼ばれたが、実際は貴族より以前からイングランドに住み着いていた地主たちである。

Textiles For Commercial, 
Industrial and Domestic Arts
 Schools; Also Adapted 
to Those Engaged in 
Wholesale and Retail 
Dry Goods, Wool, 
Cotton and 
Dressmaker’s Trades
    さて、羊毛禁輸に戻ろう。エドワード三世は百年戦争継続のために羊毛の輸出だけでなく、輸入をも禁じた。自国内で織物業を興し、それによって富の流出を防いだのだ。そのため「羊毛商人王」The royal wool merchantとあだ名されたが、それよりも「イギリス商業の父」Father of English Commerceのほうが通りがいいかもしれない。
 毛織物の仕上工たちは毛織物商drapersとなり、毛織物市場cloth hallを形成し、組合Drapers Companyがその頂点に立った。彼らは絹物商mercersや香料商grocersと手を組み、冒険商人組合Company of Merchant Adventurersを組織した。そしてヨーロッパのあちこちに進出し、ハンザ商人たちの支配を覆していった。羊毛を禁輸したフランドルにも毛織物を売込んだ。後の話だが、一五六四年にエリザベス女王は彼らに特許状を与えることとなる。
 イギリスの資本主義はこのとき始まった、と言ってもいいかもしれない。
 困ったのは新興貴族、いやもうこの際ジェントリーと呼ぼう、たちである。
 原毛の輸出が出来なくなっただけではなく、織物製品の輸入も出来なくなったのだ。彼らが身につけるのは、国内で織られた製品のみとなった。しかも本物の貴族のような「位」があるわけでもない。当時のイギリス貴族たちはノルマン・コンクェストでやってきた北欧人の子孫であり、見かけからして庶民とは違っていたが、ジェントリーは着るものが同じなら下々と大して違いがない。
羊毛文化物語 (講談社学術文庫)
    かくしてジェントリーたちは「もうこうなっては、我々の妻君は使用人が着るものと同じ服を着なければならなくなるではないか!?女主人と下婢との区別ができなくなるではないか!」と嘆くことになった。
 ワット・タイラーの乱は、このような背景があって惹き起こされたものだ。
 指導者以外ほとんどが文盲だったと思われる反乱集団において、目で視てわかる、体験として実感できる、というのは重要なことだった。
 ジェントリーも農民も同じ人間だというのに、どうしてここまで差がつくのか、という怒りは燎原の火のごとく広がり、土地の証書を焼き、農奴の廃止を求め(実際に廃止された)、教会財産の分配を要求した。
 ちなみに、この乱が起きたときは、国王はエドワード三世の孫、リチャード二世になっている。
 結局、王との謁見を許された首謀者のワット・タイラーが王宮で刺し殺され、叛乱はあえなく鎮圧された。
 冒頭のセリフを口にしたもう一人の指導者ジョン・ボールは、逮捕後に四つ裂きの刑に処せられたという。

 次回に続く。

STRAY SHEEP~ポーとメリーの大冒険~

0 件のコメント:

コメントを投稿