「あたくしは幸せでした。なぜかってぇと、不器用でしたから」
そう語った八代目桂文楽は、当時古今亭志ん生と人気を分け合い、名人の呼び名を恣にしていた。
つまりは、志ん生とは正反対の芸風だったのだ。
亡くなったのは昭和四六年だから、私はまだ小学生だ。落語と言えば「笑点」くらいしか知らなかった。
しかし後に、その死に至るいきさつを知り、心に残るところがあったので、ここに記してみようと思う。
まず、桂文楽といえば、「一度落語を間違えただけで隠居した人」というように語られることが多いようだ。特に立川談志が、揶揄的にそう語るものだから、そのように広まってしまった。
実際はそうではなく、「話を途中で忘れてしまったため」、である。
大して変わらないようだが、その背後にある事情を知ると、大分おもむきが違ってくる。
文楽は自らの身体に「老い」を感じるにつれ、あることを恐れるようになった。
それは、今まで自分が目にしてきた、先輩の落語家たちの醜態である。
最初から話を取り違える、途中から全然別な話になってしまう、同じところをぐるぐる何度も語ってしまう、などなど……
「年をとるのも芸のうち」とは言えど、なかなかそうはならないのが実際のところだった。
ある歳になってから、文楽は家を出る前に必ずある「稽古」をした。
話を違えた時、謝る稽古である。
「あいすみません、もう一度勉強して、出直してまいります」
そう述べて、深々と頭を下げる。その様子を何人もの弟子たちが目にしてきた。
間違えたなら潔く謝り、また稽古を積んで出直そう、というわけだ。
だが、その口上を実際に述べるような事態は、ずっと起こらなかった。
さてそんなある日、とある集会に招かれ一席ぶつことになった。演目は『大仏餅』である。
最初はなんということなくすらすらと語っていたが、途中ではたと口が止まってしまった。どうしても次が出てこない。思い出せないのだ。
異変に気づいてざわつく客たちに、深々と頭を足れてかねてより稽古していた「口上」を申し述べた。
「あいすみません、もう一度勉強して、出直してまいります」
……
これだけのことなら、なんということはない。また稽古を積んで出直せばいいだけのことだ。
ただ、文楽には、どうしても自分を許せないことがあった。
その日、家を出る前、いつもの「口上の稽古」をしなかったのだ。なぜなら、その前の日、まったく同じ『大仏餅』を別なところで演じていたからだ。
そう、今日高座にかけるのは昨日と同じ『大仏餅』だ、まさか間違えることはあるまい、という己の慢心に行き当たり、自分で自分に絶望してしまったのだ。
その後は高座に上がらず、稽古すらもせず、終日寝ている日が多くなった。具合が悪いのかと案じ、家人が医者を呼ぼうと言っても「ああ、いらないよ」と断ってしまう。以前はちょっと吹き出物が出来ただけで大騒ぎで医者を呼んだものだったのだが。そうして自分で自分の寿命を縮めるようにして亡くなった。享年七九。死因は肝硬変とされた。
訃報を聞いた志ん生は、頭から布団をかぶって一日泣いていたという。
以上は、中学の頃に何度も読み返した大西信行著『落語無頼語録』による。本が手元にないので記憶だけで書いた。細部が違っているかもわからないが、大筋はあっているはずだ。私が本を手にした時、登場する落語家たちのほとんどは高座を観ることがかなわなかったが、そこからずいぶんと学ぶことがあった。
ちなみに、この本の著者は立川談志が嫌いなようで、けっこう批判的に書かれている。あたくしは好きですけどね。
明烏
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