piketty |
前回、近代以前においては財産とそこから分離した「名」が、「命より大事なもの」としてあったということを書いた。近代になって資本主義が全盛になると、財産は金銭に置き換え可能なものとなり、それに代わって「愛国心」というものが登場した。でも、財産が「命より大事」とする価値観の底流は失われておらず、それは「愛国心」にとって邪魔なものになった。
こういう前近代的な心性の隠された流れは普段意識されることが少なく、表面的には「命こそが一番大事」ということになっている。そして、「お金はその次に大事」
そう、これこそが常識なのだが。
ピケティは徴税の資料などをもとに、資本所得がつねに経済成長を上回っていることを明らかにした。
つまり資本主義ってのは、どんどんどんどん格差を拡大していくのが本性なのだ、というわけだ。
そして、それがどういう事態をもたらすかというと、いったん「上」の方へ吸い上げられた「資本」が、また「下」に降りてくることはなく、それは世襲されて「財産」を形成することになのだ。
ところがピケティは、滞留したものはそのまま元に戻らず、世襲の財産を形成することを明らかにしたのだ。(もちろん災害やトラブルで拡散する例外はある)
そうして金銭が「財産」を形成するとどのようなことが起きるか。
バラバラの粘菌が集合してまるで別な生き物になるように、財産となった金銭は元々の流通性を失い、まったく別なものとして振る舞い始めるのだ。
そのとき財産は前近代的な風貌を取り戻し、「命より大事」なものとして存在するようになる。
こういう価値観の変異について、ピケティは書いていないと思う。まだ全部読み切っていないけど。だって経済学者には絶対わからないことだし、加えて欧米の人間には見えづらいことでもあるからだ。キリスト教っていうヴェールがかかってるからね。日本はそれがないので、そのへんの流れがむき出しになっている。
だから日本で金銭が財産を形成するようになると、それは「命より大事」なものになるので、そのために自らの命を絶つようにもなる。先進国の中で日本人の自殺率が高いのは、そこらへんの事情もあるんじゃないかな。そのせいで上の「金は命より重い」とかいう、縦線多めのおっさんの物言いが、あほみたいなリアルをまとってしまっているのだ。
そして、ここからがさらに問題。
形成された財産が世代を超えて引き継がれるようになると、それは「命よりも大事」になる。
この場合の命ってのは、「他人の命」もふくまれる。
でもそれは、絶対に感づかれちゃいけないことなんで、財産はすべて金銭に換算可能だ、と新自由主義者の方々は口を酸っぱくしていうわけだ。金銭なんかより命の方が大事だってタテマエを想起させるために。財産の正体から目を背けるために。
だからピケティの本は、「言っちゃいけない」ことにふれてしまっているわけ。
でも残念ながら、なんでいけないのか、については語られていない。はず。まだ全部読んでないけど。
「格差があって何が悪いの?」という開き直りを、新自由主義方面の方々はよくする。竹中とかいう人とか、小泉純一郎も国会で似たようなことをわめいてた。
この問いについて、経済学者はほとんど答えられない。経済学の範疇にないからだ。
その答は「人の命が軽くなるから」
あとおまけで、金銭と命の関わりについては、レヴィナス の『貨幣の哲学』がおすすめ。人を傷つけたことへの罰が罰金ですむなら、なぜ「目には目を」は「目には金を」ではないのか、みたいな話。
貨幣の哲学 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)
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以下、続いて書かれたエントリーのリンク集。
読み進むにつれて触発され、「財産」が「世襲」される時に経済的な事象を越えた振る舞いをする、ということについて書こうと思いました。が、あまりに大きなテーマだったので途中で切り上げました。また勉強しなおして、取り組みたいと思います。
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