2014年8月13日水曜日

それは家事が労働である証拠みたいなもん

 テレビを見ないので世間の話題について遅れがちなのだが、今頃になってヘーベルハウスの「妻の家事ハラ白書」を取り上げてみたい。
 ちょっと注釈を入れておくと、この「家事ハラ」といういやつ、本来の意味とはぜーんぜん違うニュアンスで流通しているようで、名付け親が怒り心頭なのだそうだが。
家事労働ハラスメント
―生きづらさの根にあるもの (岩波新書)
 でもまあ、しかたないといえばしかたない。元々のやや重たい意味だと、居酒屋でオダあげるときのネタにならない。巷間口の端に上らねば、効果的な広告とはならないのだ。その点今も昔も、妻についての愚痴は、野郎どもにとって居酒屋のナンコツ唐揚げ同様定番のサカナなのだ。私のような愛妻家は肩身が狭いのである。マジで。ほんとマジで。
 ヘーベルハウスの「白書」がどのようなアンケートを元に構成されたか知らないが、作った人は「これはウケるぞー」くらいにしか考えていなかったことは確かだ。そうやって異様に低い目線からのものいいが、現状のおかしな部分を意図せず明らかにしてしまう、というのも、まあ、よくあることと言えるかもしれない。


労働と人生についての省察
さて、シモーヌ・ヴェイユというお方が、

…………
通常労働と呼ばれている強制労働の中には、隷従という不動の要素が含まれているのであって、完全な社会的平等を持ってしても、それを消滅させるわけにはいかない。
労働は必然性ではなく、合目的性によって支配されている。
…………


 という残酷なことを、ごまかしなくおっしゃってくれている。
 要するに、「労働する喜び」てのは通常の「強制された」労働の中には見出され得ず、そういう意味での労働は、やらずにすむんなら誰だってやりたくない、ということでもある。
 つまり家事「労働」なんて、誰もやりたくてやってるわけじゃないよ、ということで、そういう「言わない約束」みたいなことを、ヘーベルハウスの広告はぺろっと明らかにしてしまったのだ。

 ヘーベルハウスの「家事ハラ」は本来の意味をねじ曲げてしまったかもしれないけれど、家事を「労働」とする本質を暴いたということについては、本の著者の意図にそっているといえなくもない。
 だって、ホームページの例を見てもらえばわかる通り、これって嫌な上司から部下へのイヤミそのまんまだもんね。
「お皿洗いありがとう。もう一度洗っとくね」

「うむ、ごくろう。あとはオレが直しとくよ」

「かくし味とかいらないからね」

「自分なりの考えとか入れなくていいからな」

「早く終わったね。ちゃんとやってくれた?」

「おいおい、ずいぶん早いな。ちゃんとやったのか?」

 つまり、家事とは強制的な隷従の要素を含んだ、通常の意味での「労働」であることが、女性から男性へ言うという形によって初めて目に見えるようになっているわけだ。
 これ、男性から女性に同じこと言っても、漬かり過ぎの漬物みたいにぬか臭い古いタイプの「男」ってのが、でろんとそのまま提供されてくるだけでぜんぜん面白みがないので、この形になっている。
 それでは、この広告を見て一番ウケた人は誰だろう?
 答は、家事なんかぜーんぜんやらない「男性」だろう。ぬか臭そうな。
 一応この広告は共働きの夫婦に向けて作られているが、「家事ハラ」をネタ化することによって、ヘーベルハウスは家事なんか全然やらない旧タイプの男性こそを顧客として望んでいる、と図らずも吐露してしまっている、ということでもある。

 ここから考えなくてはならないのは、家事を女性だけに押し付けるという問題をさらに越えて、家事をいかに「労働」から解放するかということだろう。せめて合目的性から必然性へと昇華させられればいい。
 労働でさえなくなれば、家事なんか大して苦ではないからね。今は良いツールもいっぱいそろってるし。

 さて、「そういうお前は家事をやってんのか?」と訊かれそうだが、私は愛妻家なのでそういう問いには答えないのだ。いやほんとマジで。


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