運命のクーデターからさかのぼること一カ月。一九九一年の七月に、ゴルバチョフはロンドンへと向かっていた。先進七カ国首脳会議(G7)にゲストとして出席するためだ。これが転機となって現在はG8になっているわけだが、今またG7に戻ろうとしているという。歴史は繰り返す。もはや喜劇ですらなく、漫才の定番ネタのごとく。
それはさておき、このG7でゴルバチョフは「世界を変えた英雄」として迎えられると考えていた。だって、去年ノーベル平和賞を受けたばかりだったし。
ゴルバチョフは、民主化したソ連をスウェーデンのような高福祉国家、すなわちスカンジナビアン・モデルにのっとった国に作り替えるつもりだった。それには是非とも、他の先進諸国からの助けが必要だったのだ。
がしかし、そこで投げてよこされたのは、ゴルバチョフが望んだような救命ボートではなく、常に空気を吹き入れないとしぼんでしまうような、どっかに穴があいてるのにそれがどこだかわからない「うきわ」でしかなかった。
ショック・ドクトリン〈上〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く
ショック・ドクトリン〈下〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く
http://www.g8.utoronto.ca/summit/1991london/communique/#soviet
>31. We commend the IMF, World Bank, OECD and EBRD for their study
of the Soviet economy produced, in close consultation with the
European Commission, in response to the request we made at Houston.
This study sets out many of the elements necessary for successful
economic reform, which include fiscal and monetary discipline
and creating the framework of a market economy.
何やらお行儀良く書かれているが、その時G7がゴルバチョフに要求したのは「急進的な経済的ショック療法」をすぐに受け入れろ、でなければお前を奈落に突き落とすということだった。ゴルバチョフはこの提案について、「改革のスピードと方法に関する彼らの提案はまさに驚くべきものだった」と振り返っている。
The New Russia: Transition Gone Awry
「急進的な経済的ショック療法」とは何か。それがナオミ・クラインによる『 ショック
・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』のテーマである。
つまり、民主主義的には行いづらい「経済改革」を、大惨事(自然災害も人的災害でも)に乗じて大衆を恐怖で操作し、導入してしまおうというものだ。それは「ごく一部の人間だけが豊かになれば、あとはどうでもいい」という政策である。ぶっちゃけすぎみたいだけど、本当にそうなんだからしゃーない。
このあと、ゴルバチョフはつぶれかけた町工場の社長のように、IMFや世界銀行その他世界中の金貸し機関を駆け巡るが、みんな口を揃えたように同様の「アドヴァイス」ばかりのたまってくれるのだった。ゴルバチョフは、それを受け入れるかどうかはともかくとして、当面の債務返済免除を頼んだが、それすらすげなく断られたという。
世界が急にゴルバチョフに冷たくなったわけではない。以前からそれらしき「サイン」は出されていた。熟年離婚する夫婦と似たようなものだ。
まず、主要経済誌であるエコノミストは、 ゴルバチョフがノーベル平和賞を受けるころあいに"Order, order"と題する記事を掲載した。これはゴルバチョフに対して、「独裁的手法」をおすすめするという内容だった。そしてさらにその続編として"Order, order; can Mikahail Gorbachev deeliver the Soviet Union from chaos without resoring centralised autocracy?"と問いかけつつ、ゴルバチョフにチリの軍事独裁者ピノチェトを見習うように、と助言している。曰く「流血の事態を招く可能性もある」さらに「自由主義経済へのピノチェト・アプローチともいうべき試みを行うのは、今度はソ連なのかも知れない」と結ぶ。
そしてワシントン・ポストに至っては、「ソ連経済の実践モデルはピノチェトのチリだPinochet's Chile a pragmatic model for soviet economy」と題する論評を掲載し、その中でゴルバチョフをクーデターで失脚させるというシナリオを支持し、そして、「クーデターの起こし方を本当に知る独裁者、即ちチリのアウグスト・ピノチェト元将軍」をモデルにすべきだ、とまで主張した。
三日天下のクーデター直後のことである。
そして現実に、ピノチェトをモデルとした改革は、エリツィンが「シカゴ・ボーイズ」を受け入れることで行われた。
すいません、まだまだ続きます。
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