前回、世界と対峙する「怒り」と書いたが、その「怒り」はどこからくるのか。
それは貧しさからくる、と言ってもただお金が足らないとか、そういう話ではない。
ヘルムート・ラッヘンマンが歌劇『マッチ売りの少女 』で表現したような、世界からの拒絶、社会からの隔絶がその根本にある。
そうした場合、世界へと向けられる「怒り」は、即ち世界の「豊かさ」へと向けられる。
「豊かさ」というのは金銭ばかりじゃない。資本主義的価値観が隅々まで行き渡った現代において、金銭の豊かさをうらやむのはおおっぴらにはしづらくなっている。
なので、それ以外の豊かさ、知識が「豊か」である、人生経験が「豊か」である、精神が「豊か」である、などなどの事柄が、「怒り」の対象とされてしまう。
それは具体的に、インテリゲンチャ(知識が豊か)、老人(人生経験が豊か)などである。
そしてさらに、その矛先は弱者へと向けられる。
弱者が「豊か」だと言うわけではない。
弱者を守ろうとする考えが「豊か」だからだ。それは精神が「豊か」だということでもある。
「怒り」を抱く人たちが弱者をその標的とするとき、本当のターゲットはそれらを守ろうとする者の「豊かさ」なのだ。
『アンネの日記
』の事件を知ったとき、ふと十九世紀ドイツの学生運動であるブルシェンシャフトのことが思い出された。
ブルシェンシャフトは反王制でありつつ、反ユダヤであった。ハイネはその運動に共感を覚えて参加しようとしたが、ユダヤ人であることを理由に拒絶されている。
彼らが標的としていたのは、ユダヤ人そのものではなく、それを擁護する体制側の「豊かな」人々だった。こうした気分は二十世紀にも引き継がれ、ユダヤ人絶滅を願うセリーヌの『死体派』などをジッド が絶賛したりしている。ジッドはそれが裏返しのブルジョアジー批判になる、と考えたのだ。
世界が酷薄さを増し、千尋の谷に突き落とされてなお這い上がる者のみを愛するなら、やがて谷底から亡霊が這い上がってくる、ということだ。
つるかめつるかめ。
ラッヘンマン:マッチ売りの少女
ブルシェンシャフトは反王制でありつつ、反ユダヤであった。ハイネはその運動に共感を覚えて参加しようとしたが、ユダヤ人であることを理由に拒絶されている。
彼らが標的としていたのは、ユダヤ人そのものではなく、それを擁護する体制側の「豊かな」人々だった。こうした気分は二十世紀にも引き継がれ、ユダヤ人絶滅を願うセリーヌの『死体派』などをジッド が絶賛したりしている。ジッドはそれが裏返しのブルジョアジー批判になる、と考えたのだ。
世界が酷薄さを増し、千尋の谷に突き落とされてなお這い上がる者のみを愛するなら、やがて谷底から亡霊が這い上がってくる、ということだ。
つるかめつるかめ。
ラッヘンマン:マッチ売りの少女
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