2016年2月15日月曜日

とりあえず芝居じみた話ってのは疑った方がいいのかもしれない

千本釈迦堂 大報恩寺の美術と歴史
    中学のときの修学旅行は、おさだまりの奈良京都だった。辛気くさい寺社仏閣を生意気盛りの中学生が練り歩くのだから退屈しないわけがないのだが、そこは観光で百年食ってる土地だけあってぬかりなく、ガキはガキで充分に楽しめるネタがあれやこれやと用意されていた。
 ベテランのバスガイドさんの話はなかなかに面白く、その中で印象に残っているのに次のようなものがあった。

ある大工がお寺を建てるとき、うっかり柱を一本短く切ってしまった。さてどうしたものかと頭を抱えていると、女房が「他の柱も全部短くすれば良い」とアドバイス。なるほど、とその通りにしてみると、今までのものよりずっと姿良くできた。この怪我の功名で、大工の名は一層上がったのだった。ちゃんちゃん。みなさん、発想の転換って大事ですね……


 この話の元になったのは、大報恩寺の千本釈迦堂にまつわるエピソードらしい。
桝組
桝組

    大工の名は高次、女房の名はおかめ。
 高次がうっかり切った柱に、おかめは「桝組(右画像参照)をあてがえばいい」とアドヴァイス。
 ところが、女から知恵をもらったのでは夫に恥をかかすことになる、とおかめは上棟を待たずに自害してしまったのであった……

    バスガイドさんがオチをはしょったのは、なんでおかめが死ななきゃならんのか、中学生に理解させるのは難しいと判断したからだろう。ま、今じゃ大人だって難しいわな。
 こうした話はこの千本釈迦堂のものが一番有名なのだが、似たようなものが他にないわけではない。

 医王山飛騨国分寺を建てる時、やはり大工の棟梁が柱を短く切ってしまった。
 そこへ八重菊という棟梁の娘が、桝組を使うことをアドヴァイス。
 棟梁は娘から知恵をもらったことがばれないように、娘を殺してしまう。
 殺した娘を埋めた傍らには一本の銀杏の苗が植られた。それが今も寺に残っており、乳銀杏(子を生んだ母がお参りすると乳の出が良くなる)の異名で大切にされている。
 寺と古さがほぼ同じなので、樹齢千二百年ほどになるとか。

 とまあ、大体同じような話があるわけだ。これらは実在する建築物の由来となっているが、話だけなら似たようなのが日本中に残っている。

 岩手県東磐井郡大東町(旧中川村)に残る話。

 大工の父親が、ある時神社を建てる仕事をしていて、寸法を違って大事な柱を一本短く切ってしまった。父親が困っていたら、娘が長さの足りない部分に木を薄く切ってはさめば良いと教えた。父親はその通りにして立派な神社を作り、棟梁に誉められた。ところが娘に告げ口されるのを恐れて、娘を殺してしまった。それでその娘を今では神として祀り、霊を慰めるために建て前の時には、五色の旗と櫛・鏡などを一緒に祀る。

    鳥取県八頭郡若桜町吉川の三隣亡のいわれ。

 昔、大工がある屋敷の柱を一本短く切りすぎてしまった。困って家に帰り、家内に柱のことを相談したところ、「桝組の家を作るとよからあで」と答えた。
 大工は教わった通りにして上手く切り抜けたが、一人前の大工が家内に仕事を教えられたと言うことに面目を失った、と考えて家内を殺してしまった。
 それからというもの、その大工が何をどこに立てようと翌日には倒れてしまう。
 不思議に思って神社でお伺いを立てると、はたして家内の祟りであるとわかった。そこで大工は家内の墓に参って、「これからはおめえの顔を立ててやるけえ、仕事をさせてごぜえ」と頼み、一カ月のうちに何日かの不成就日を決めて、その日は家を建てないことにした。
 これが、三隣亡の由縁であるとされている。

 長崎県対馬西北部の話。

 昔、名の知れた大工が柱を短く切りすぎて困っていると、女房のオタケが一升桝を頭に乗せてみせた。それで舛型の手法を思いついた。しかし、女房に教えられたことが知られぬよう、女房を殺した。

 栃木県上都賀郡粟野町旧粕尾村にある話。

 大工の棟梁が棟上げしようと思ったら、柱を短く切ってしまった。どうしたものかと思案していると、奥さんが「柱の上にマスを作れば良い」と助言。なるほど、その通りにしたら立派に出来た。しかし棟梁は「かかあのおかげでできたものの、いつかは他人にしゃべるかもしれない。そうしたら世間に知れ、自分の面目が丸つぶれになってしまう」と考えて、奥さんを殺してしまった。すると、上棟式で化物が出たので、女の化粧道具を捧げ、鬼門に矢を向けるようにした。

 千葉県長生郡長柄町の話。

 ある宮大工が柱の寸法を三寸短く切ってしまった。どうしたものかと苦しんでいると、女房が「そこにこういうものをつけたらどうでしょう」と言うので、その通りに飾り付けたところ、上手くしあがった。しかし宮大工は、教わったことを隠すため女房を殺して神に祀った。


 秋田県雄勝郡東成瀬村にも違うけどちょっと似たような話が。

 昔、名人と称された棟梁が、普通の人にはもちろん、大工にすらわからない間違いをした。ところが、その間違いを十七、八の娘っ子に指摘されたため、頭に来て矢で射殺してしまった。以来、その棟梁が家を建てる度災難が起こったので、棟上げの木の矢に女の上から下までのものを吊るして、娘の霊を慰めるようになった。



 さらに左甚五郎(東照宮の眠り猫で有名な人)にも同じようなエピソードがある。
 江戸の読み物に「びっくり下谷(したや)の広徳寺」と出てくる下谷(現台東区)の広徳寺山門は、左甚五郎が関わったとされる。甚五郎が図面を引いたが、担当した棟梁の政五郎が柱を一尺短く切ってしまい、責任を感じた政五郎は自害した。しかしそれは「寸足らずの門」としてかえって江戸の名物となったいう。冒頭のバスガイドさんの話は、これを混ぜてあるようだ。広徳寺は関東大震災で焼け、今は練馬に移っている。

    民話・伝説のたぐいは似たようなパターンのものがいっぱいある、ってのは常識だが、中には実在する寺社の由来として残ってしまうこともあるようだ。
 実際の事件が形を変え、民話となってひろまった、と考えることも出来るが、私はむしろ民話的ストーリーが寺社の由来に入り込んだのだ、と考えたい。
 広めたのはやはり、日本中を腕一本で渡り歩いた大工たちであっただろう。



講談名作文庫22 左甚五郎

注:このエントリーは以前書いたものを少し書き足して再録したものです。

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