上掲はピーター・ウィアー監督の『危険な年 The Year of Living Dangerously』のラストシーンである。主人公のジャーナリストは、共産党の男に助けられ、空港へとたどりついて脱出する。
この映画は一九九九年までインドネシアでは上映を禁じられていた。現在ではテレビでも放映されたそうだ。ピーター・ウィアー監督の名前は、『ピクニックatハンギング・ロック』での方がよく知られているだろう。ウィアーはオーストラリア人である。そして、オーストラリアとインドネシアは軍事的に互いを仮想敵国としている。
暴力と適応の政治学: インドネシア民主化と地方政治の安定 (京都大学東南アジア研究所地域研究叢書) |
そして『アクト・オブ・キリング 』、『ルック・オブ・サイレンス 』により、その事件は解決したのではなく、無理矢理「良いことだった」ことにして忘れ去ろうとしている、ということも知った。
しかし、まだ詳しいことはわからない。デビ夫人の思い出話だけじゃ、どうも食い足りない。確実に自分を美化してるだろうし。
そうしたらこのあいだ、『暴力と適応の政治学』という本が出た。この本には『アクト・オブ・キリング』のことも載っている。これを参考にしつつ、九月三〇日事件について、大まかなところをまとめてみたいと思う。
一九六五年九月三〇日、陸軍の将校六人が殺害されたのを皮切りに、クーデターによってスハルトが権力を握った。翌年の三月十一日に、スカルノは全権をスハルトに譲る書類にサインした。この「三月十一日」は、スハルト政権下のインドネシアでは重要な記念日となっていた。(近年の日本では震災の日だ)
このクーデターは陸軍によって行われたが、それは現在「共産党がクーデターをたくらんだので、スハルトが陸軍を率いてそれを鎮圧し、共産党を解体した」ということになっている。六人の将校は共産党によって残酷な殺され方をしたことにされており、それは小学校でもそのように教えられる。『ルック・オブ・サイレンス』では、主人公が息子に「それは嘘だ」と教えている。
スカルノ政権下で陸軍と共産党は熾烈な勢力争いを繰り広げていた。スカルノがやや共産党に傾いたと見て陸軍が危機感を抱いた、というのが発端と言われている。
この日から共産党およびそれに関わったと目されたものは、陸軍の手先となって働く暴力集団によって、およそ百万人が殺されたという。この事件は「正義」の暴力として、今も語り継がれている。
共産党はそれからずっと非合法化されたままだ。
共産党を陸軍によって解体したスハルトは、パンチャシラという五原則を掲げ、これを国家イデオロギーとして浸透させることに勤めた。
①唯一神への信仰(最大はイスラム教だが、その他にカトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズー教を公認とした)
②公平で文化的な人道主義
③インドネシアの統一
④協議と代議制において英知によって導かれる民主主義
⑤インドネシア全人民に対する社会正義
このパンチャシラに反するものは反スハルトの共産主義であり、共産党とは反スハルトでこのパンチャシラに従おうとしない連中だ、ということになった。
このパンチャシラの名を冠された暴力集団が結成され、それは「パンチャシラ青年団」と名づけられた。この組織は『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』ですっかり悪名高くなった。
元々から陸軍が共産党に対抗するために作り上げた組織で、一九五〇年代後半にはすでに存在していた。その他にもPPPSBBI(インドネシア・バンテン文化・芸術・拳術家連合)など複数の組織が関わったが、このパンチャシラ青年団がスハルト体制下において一番大きな利益を得た。青年団は普段、ナイトクラブや売春宿の用心棒をしたり、店舗や露天商からショバ代を巻き上げて稼いでいる。また、地方での開発で立ち退きをスムーズにしたり、そのための土建業を営んでいたりもする。この辺、日本のヤクザとあまり変わらない。なかには弁護士事務所を開くものもあると言う。
インドネシア民主化後はパンチャシラ愛国者党(後の愛国者党)を結成し、選挙に打って出たが得票率は1%に届かなかったようだ。
インドネシアは一見安定化しているようで、それは直接的な暴力を根底とした安定であるようだ。
そうした状態を抜け出すには、まず何を「思い出し」、そして「忘れる」かについて、考えなくてはならないだろう。
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