「禅は一万人に一人の天才のための宗教だ」と司馬遼太郎は言っていた。
じゃあ、日本にはそうした天才がざっと一万人いるわけで、集まったなら信者数一万人の宗教団体になる。そう考えると、わりと普通な感じだね。
まあ、つまらん揚げ足取りはともかく、「禅問答」といえばわけのわからんことの例えになってるくらいで、「禅」というやつがとんでもなく難しい宗教であることは確かだ。それはいったいどのように難解であるのか? 曹洞宗を開いた道元による『正法眼藏』から引用してみよう。
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……仏法にかならず浣洗の法さだまれり。あるいは身をあらひ心をあらひ、足をあらひ面をあらひ、目をあらひくちをあらひ、大小二行をあらひ、手をあらひ、鉢孟(ほう)(註:僧侶の持つ食器)をあらひ、袈裟をあらひ、頭(こうべ)をあらふ。これらみな三世の諸仏諸祖の正法なり。
……
つぎに楊枝をつかふべし。
……よくかみて、はのうへはのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすゝぐべし。はのもとのしゝ(註:歯茎)のうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろえ、きよくあらふべし。嗽口のたびたびすれば、すゝぎゝよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。
…………
えーっと、「お顔をきれいに洗うんですよー」「お椀や服や頭もちゃんと洗いなさーい」「歯はていねいにみがいてね」「最後には舌もこすりなさい」ってことだね。なんだこりゃ、いい大人にいうことか。保育園の先生みたいじゃないか。
道元はとにかく身ぎれいにしろ、とうるさいくらいに言っている。それが御仏の教えである、と。
歯を磨くのは楊枝を使え、と。楊枝の長さを指定し、血が出るくらい汚れをこそげなさい、という。
そして、自分が見てきた中国(宋)では、
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馬の尾を寸餘にきりたるを、牛の角のおほきさ三分ばかりにて方についくりたるが、ながさ六七寸なる、そのはし二寸ばかりにむまのたちがみのごとくにうへて、これをもちて牙歯をあらふのみなり。
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だったという。これって、今の歯ブラシだよね。道元は「そんなもんではよく磨けない」と叱り、そんなものを使っているから、
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しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだてゝものいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。
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てなことになっている、という。歯槽膿漏大流行りだったんだね。
とにかく、そんなみっともないことにならぬよう、常に身ぎれいにしているのは座禅などの修業と同じくらい大切だ、と説く。
昔のお話に出てくる、悪臭紛々の乞食坊主とか、ちゃんと教えを守っていなかった、てことなのかな。
とまあ、かように禅の教えは難解なのである。あれ?
いや、当然こういう日常のことばかりじゃなくて、他にもいろいろと道元は述べている。
しかし、普段のきちんとした生活がそもそも修業なのだ、というのは禅宗においては徹底されているのだ。
何やらわけのわからん問答をしていても、それは実生活に根ざしたものであって、頭の中だけでごにゃごにゃこねくり回した空理空論ではない、ということなのだ。
ここで次回に続く。すんません。
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