2015年11月16日月曜日

『正法眼藏』は百歳未満の講読を禁ず

永平正法眼藏蒐書大成 19
(注解・研究篇 9)
    果たして人間は、ものが見えるままに見ているだろうか。ということは誰もが一度は疑問を抱く。それはおよそ幼い頃のことで、成長するにつれて疑問を抱いたことすら忘れてしまう。しかし、まれにその疑問を死ぬまでずっと抱いたままの人もいる。さらにまれなるは、その疑問を解いてしまう人もいるということだ。
 そうした人は、「悟りを得た」と呼ばれる。



 まあ、人間がものを見えるように見ていなくて、脳みその中で修正しているということは、認知心理学とかやらなくても学研の『からだのひみつ』でも読んでいればわかることである。だいたい網膜に移っている像は、実際のとは逆さになっているそうだ。
 その他にも、大きくなるにつれて語彙が増えると、その語彙に従ってものを見、さらにはその語彙に認識が左右されるようになる(サピア=ウォーフ仮説とかね)。人間は「言語」の檻の中に住んでおり、その外側を見ることは出来ないのだ……

 という「言葉の檻」をぶちやぶり、外側の世界を見よう、というのが禅の修業における一つの動機になっている。
 あのよくわからない「禅問答」というやつは、言葉の働きに「切れ目」を入れる作業なのだ。
 そして、外界の「もの」を認識するきっかけとして、「恁麼(いんも)」という言葉が使われる。その言葉は「どのような」という、そのもののあり方そのものを問うように使用される。
…………
 ……一僧いはく、「幡(ばん)の動ずるなり(旗がはためいている)」
 一僧いはく、「風の動ずるなり」
 かくのごとく相論往来して休歇(きゅうけつ)せざるに、六祖いはく、「風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり(風でも幡でもなく、動いているのはお前達の心だ)」
 …………この道著(だうぢゃ)は、風(ふう)も幡も動(どう)も、ともに心(しん)にてあると、六祖は道取するなり。まさにいま六祖の道(だう)をきくといへども、六祖の道をしらず。いはんや六祖の道得することをゑんや。為甚麼恁麼道(ゐじんもいんもだう)(甚麼(なに)としてか恁麼道(い)ふ)(何をもって恁麼とするのか)。
…………

 とこのように認識の根源を問うが、どうすればその先に行けるのかはどこにも書かれていない。不立文字というやつである。
 禅宗というのは、不立文字といいつつ文字で書かれている事柄が多いが、文字で書けないからこそやたらに文字で書かれているわけである。
 まあ、続きは修業で♡、というわけだ。
 そしてさらに

…………
 しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間(ないぐゐいちゆうげん)(座標のない空間)にかゝはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜(ろしめさい)(ロバのアゴや馬の唇のようにあまり話題にしないもの)をみるなり。
…………

 どうということのないものこそ、見るべきである。なぜなら
…………
 釈迦牟尼仏言(しゃかむにぶつごん)、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」
…………
 仏性はどんなものにも宿っているからだ。
 仏性?それはどのようなものか。
…………
 ……仏性は草木の種子(しゅうじ)のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎(げきやう)生長し、枝葉花菓もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花菓、ともに条々の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎(こんきやう)等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外(ないぐゑ)の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。
…………

    草木が育ち、実を結び、その実がまた草木に育つように、変わっていきながら変わらぬものが「仏性」である。
 てかこれ、アリストテレスに似てるね。
 種としての「デュミナス」から発芽する力として「エネルゲイア」を持ち、それを発現した状態として「エンテレケイア」にいたる。
 禅がZENとしてヨーロッパで流行したわけだ。

 
 とまあ、こんな具合に、世界を正しく認識するためには厳しい修行が必要なのだ、と道元先生は教えて下さるわけである。
 ちなみに、私は中学の時に膝の軟骨を傷つけて以来、結跏趺坐どころか正座するのもしんどいので、パスってことで。


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