……と言ったなら、どう思われるだろうか。ほとんどの人が「そんなバカな」と身近な例を挙げてくれるだろう。人類学に詳しい方なら、サイレント・トレードやポトラッチのことを教えてくれるかもしれない。
しかし、人類学上のそれらの事例は、通常の人たちが頭に思い描く「物々交換」とは違うものだ。普通「物々交換」といえば、交換されるのは同じくらいの価値のもの、と無意識に考えられている。人類学が指し示す事例はただ物を渡し合うだけで、交換する物の「価値」については考慮されないのだ。幼い子にぬいぐるみをプレゼントしたら、ドロドロになるまで握りしめたチョコボールをお返しにくれるのと大して変わらない。
「物々交換」とは「お金」の介在しない取引のように考えられているが、実際はそれが「等価交換」と考えられている以上は、お互いに交換する物の価値は「お金」によって計られている。
その価値を計るのに「お金」が必要であれば、「物々交換」とは「お金」を渡す手間を省いている、というだけのことにすぎない。
つまりは、ぼんやりとイメージされるところの「物々交換」なるものは実は存在せず、実体はただの金銭を介する取引の一変種であり、取引から貨幣を「排除」しただけのシロモノである。
江戸時代、上級の武士というものはめったに「お金」に触らなかった。元服するまで、金なんぞというものが存在することも知らなかったりした。
こうした「エラい人はお金を触らない」習慣というものは戦後になってもあって、吉田茂は自分で財布を持ったことがなかったという。「お金は大事だよー♪」などという感覚は、あくまで下々のものであったのだ。
実際、社会というものは金銭を「隠す」ことで成立している。
これだけ「経済」という言葉が口にされ、駅前には必ず銀行とサラ金が軒を連ねていても、みんな自分の財産や年収をおおぴらにしたりはしない。
まるで、橋を渡るときにその橋が人柱によって支えられていることを口にしないのと同じように。
このように「見えないようにする」ことが「第三項排除」という「暴力」であり、排除されていながら、いや排除されることで共同体を形成する基礎を形作りうるのは、そこに暴力がひそんでいるからだ。
……と、この辺で『暴力のオントロギー』については区切りとさせてもらいたい。
次は『貨幣の哲学』、ジンメルと、できればレヴィナスにも触れたい。そして、やがて財産がなぜ暴力をともなうかという、こことかここのエントリーにつなげられるといいんだけど。まだまだ先は長いなー。
ジンメル、貨幣の哲学 |
レヴィナス、貨幣の哲学 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス) |
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