2015年4月11日土曜日

「朝」は何もかもが遅れる時間だということもしくは勅使川原三郎「朝」について

昨晩、勅使川原三郎のダンス公演「朝」を見に行った。
 舞台の左手に下がる、白い大きな布の向うにある、差し込む光線の予感に対し、勅使川原三郎はそれを拒絶するかのように体の様子を次々に変化させていた。



 朝、というのは、何もかもが「遅れる」時間だ。
 別に遅刻しなくても夜明け前でも、朝が来ると「ああ、また朝が来てしまった」——と勅使川原三郎は思うのだそうだ。
 講演後のトークでそう話していたのだが、それとからめて共演の佐東利穂子のダンスについて、昔は良く「遅い」という注意をしていたという。
「遅い」というのはslowではなくて、lateというニュアンスなのだと。
 何について「遅い」lateなのか?
 これに関しては、以前ブログで取り上げた「リベットの実験」を思い出した。
マインド・タイム 脳と意識の時間
 その実験では、脳が「このように動こう」と判断するその少し前に、すでにどのように動くか脳は決定してしまっている、という結果が出されていた。
 つまりは、ダンスにおいて「このように手や足を動かそう」と判断するその以前に、脳の決定をつかんでいなければ、それはもう「遅い」ということなのだろう。
 そうした感覚は、朝が来たときに「朝が来てしまった」という認識に繋がるように思う。

 だからこそ、勅使川原三郎のダンスは「早い」
 光によって励起される神経のパルスよりも。


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