改めて読み返してみて、「ちっとたんねーな」と思ったので、ちょこまかと追記してみたい。
まず、キーポイントである「前世」について。
「前世」というものがあるとして、それはどのような働きをするか?
この漫画に現れている「前世」とは、最近の前世占いのように「あなたの前世は中世のお姫様ですよー」とプライドをくすぐるタイプのものではなく、前世において成したことが現世で報いや因果となって顕れる、そういう類いの「前世」である。
その前世とは、現世の自分とは名前はもちろん生まれも違う。さらには性別も、そしてまた生物としての種も違ったりする。
つまりそれは、もしかするとかつて自分がそこにいたかもしれない場所に、まったく別の違うものが存在している、ということなのだ。
それは「前世の自分」という名の「自分」ではないの?という疑問は近代的思考によるもので、そこに共通するとされるのは名前どころか自我も持たない「魂」と呼ばれるものだ。それは「前世」と現世の「自分」とをつなぐ、いわば通貨のようなものである。「前世」とは「魂」によってつながっているだけの、自分とはまったく別の存在なのである。
そして「前世」というものを語ることで、現世の「自分」の存在の一回性を担保しているのが、老婆の「幽霊ではありませんか」の言葉なのだ。
そうした便利な伝統や文化から外れたものは、自己の存在の不安、「自分の存在とは【『存在してない』ということではない】という程度のものではないか?」という不安に直面せざるを得なくなる。
ちょっとレヴィナスの『全体性と無限』の力を借りよう。
全体性と無限 (上) (岩波文庫) |
私のうちにある〈他者〉の観念を踏み越えて〈他者〉が現前する様式は、じっさい顔と呼ばれている
………
レヴィナスの有名な「顔」である。
漫画の解説なんかで持ち出したら、内田樹センセあたりが怒るかもしれないけど。
しかし、あのラストの老婆たちの慌てぶり
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫) |
ならば、まったく同じ二つの存在が邂逅したなら、どちらかが死なねばならないだろう。「顔」とは存在者が存在に先行するものであり、同一であってはならないものだ。闇から顕れる「顔」は、恐るべき暴力性を秘めている。互いを同じ「顔」を持つ「他者」としてみるものは、殺し合わなくてはならない。しかし、どちらが生き残るにしろ、どちらかの「顔」はそこに残るのだ。その「顔」は『ゲンセンカン主人』において、天狗の面によって象徴されている。
さらに、
…………
〈一者〉の時間が〈他者〉の時間のうちに転落してしまうことが可能なら、分離された存在など存在しないであろう。たましいの永続性という観念が、つねに否定的なかたちにおいてではあるが表現してきたのも、このことである。その観念が表現するのは、他者の時間へと滑り落ちてゆくことに対する死者の拒否であり、共通の時間から解きはなたれた人格の時間なのである。
………
という具合に、ユダヤ教徒であるレヴィナスは、前世という言葉を使わずに、存在の否定について類似したことを語ってくれる。
形而上学入門 (平凡社ライブラリー) |
…………
なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?
…………
むしろ無ではないことでしか「存在」が示せないのであれば、二一世紀の現代において、我々はむしろ自らが「他者」であると言えそうだ。
終りに、ランボーの有名すぎる手紙 の一節を引用しておこう。
…………
”私”とは他者のことだ
JE est un autre...
(イザンバール氏への手紙1871年5月)
…………
ランボオの手紙 (角川文庫) |
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