2015年4月24日金曜日

つげ義春『ゲンセンカン主人』は恐ろしい漫画であるということまたは「誰でもいいから教えて『存在してない』ってどういうことなの?」の補足として

 三年ほど前に本宅で書いたエントリーで、「誰でもいいから教えて『存在してない』ってどういうことなの?」というのがある。つげ義春の『ゲンセンカン主人』について述べたものだ。
 改めて読み返してみて、「ちっとたんねーな」と思ったので、ちょこまかと追記してみたい。


 まず、キーポイントである「前世」について。
「前世」というものがあるとして、それはどのような働きをするか?
 この漫画に現れている「前世」とは、最近の前世占いのように「あなたの前世は中世のお姫様ですよー」とプライドをくすぐるタイプのものではなく、前世において成したことが現世で報いや因果となって顕れる、そういう類いの「前世」である。
 その前世とは、現世の自分とは名前はもちろん生まれも違う。さらには性別も、そしてまた生物としての種も違ったりする。
 つまりそれは、もしかするとかつて自分がそこにいたかもしれない場所に、まったく別の違うものが存在している、ということなのだ。
 それは「前世の自分」という名の「自分」ではないの?という疑問は近代的思考によるもので、そこに共通するとされるのは名前どころか自我も持たない「魂」と呼ばれるものだ。それは「前世」と現世の「自分」とをつなぐ、いわば通貨のようなものである。「前世」とは「魂」によってつながっているだけの、自分とはまったく別の存在なのである。
 そして「前世」というものを語ることで、現世の「自分」の存在の一回性を担保しているのが、老婆の「幽霊ではありませんか」の言葉なのだ。

 そうした便利な伝統や文化から外れたものは、自己の存在の不安、「自分の存在とは【『存在してない』ということではない】という程度のものではないか?」という不安に直面せざるを得なくなる。
 ちょっとレヴィナスの『全体性と無限』の力を借りよう。
全体性と無限 (上) (岩波文庫)
…………
私のうちにある〈他者〉の観念を踏み越えて〈他者〉が現前する様式は、じっさい顔と呼ばれている
………
 レヴィナスの有名な「顔」である。
 漫画の解説なんかで持ち出したら、内田樹センセあたりが怒るかもしれないけど。
 しかし、あのラストの老婆たちの慌てぶり
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)
と、ゲンセンカン主人とその妻の恐怖に歪んだ表情は、「暴力」への予感に満ちている。ルネ・ジラールは『暴力と聖なるもの』で、東南アジアの某島では互いに同じ顔のものがいたら殺し合わねばならないので、誰それに似ているというセリフはタブーである、と書いていた。
 ならば、まったく同じ二つの存在が邂逅したなら、どちらかが死なねばならないだろう。「顔」とは存在者が存在に先行するものであり、同一であってはならないものだ。闇から顕れる「顔」は、恐るべき暴力性を秘めている。互いを同じ「顔」を持つ「他者」としてみるものは、殺し合わなくてはならない。しかし、どちらが生き残るにしろ、どちらかの「顔」はそこに残るのだ。その「顔」は『ゲンセンカン主人』において、天狗の面によって象徴されている。
 さらに、
…………
〈一者〉の時間が〈他者〉の時間のうちに転落してしまうことが可能なら、分離された存在など存在しないであろう。たましいの永続性という観念が、つねに否定的なかたちにおいてではあるが表現してきたのも、このことである。その観念が表現するのは、他者の時間へと滑り落ちてゆくことに対する死者の拒否であり、共通の時間から解きはなたれた人格の時間なのである。
………
 という具合に、ユダヤ教徒であるレヴィナスは、前世という言葉を使わずに、存在の否定について類似したことを語ってくれる。

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)
    そして、レヴィナスが存在論において依拠するハイデガーは、『形而上学入門』において、このように語りかける。
…………
なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?
…………
 むしろ無ではないことでしか「存在」が示せないのであれば、二一世紀の現代において、我々はむしろ自らが「他者」であると言えそうだ。
 終りに、ランボーの有名すぎる手紙 の一節を引用しておこう。
…………
”私”とは他者のことだ
JE est un autre...
(イザンバール氏への手紙1871年5月)
…………



ランボオの手紙 (角川文庫)


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