2015年4月5日日曜日

いけてる生け贄といけすかない生け贄の話

    この動画はアンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』である。サクリファイスとは神への捧げもの、アベルが祭りしヒツジの初子であり、アブラハムが捧げんとした息子のイサクである。
 その聖性が極限に達したのが、神への無垢なる子羊の生け贄、イエス・キリストというわけだ。
 三日後に復活したことで暴力性を払拭したとき、ただの犯罪者の公開処刑という見せしめは、聖なる生け贄の「儀式」へとその意味が逆転し、イエス・キリストは無上の聖性を獲得した。

 イエスはなぜ無上の聖性を獲得し得たか?
 それはイエスが、前回の人柱とは違って、生け贄ではなく「死刑」にされたからだ。
 法によって裁かれ、法に則って死刑とされたイエスが復活するということは、法の持つ暴力性を明らかにし、なおかつその上に立つことでもある。
暴力批判論 他十篇 
(岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
    ベンヤミンによれば死刑とは
…………
……運命の冠をかぶった暴力が、法の根源だとすれば、暴力が法秩序の中に現出するときの最高の形態である生死を左右する暴力となって、法の根源が代表的に実体化され、怖るべき姿をそこに顕示していることは、想像するにかたくない。……
…………
ものであり、さらには、
…………
……死刑の意味は、違法を罰することではなく、新たな法を確定することなのだ。というのも、生死を左右する暴力を振るえば、ほかのどんな法を執行するより以上に、法そのものは強化されるのだから。……
…………
とする。しかし、
…………
……繊細な感受性にはとくに、法における何か腐ったものが感じとられる。繊細な感受性は、運命がその尊厳性をそのような執行であらわすような諸関係が、自己とは無限に遠いことを悟るだろう。……
…………
 ユダヤ神秘主義者でマルキストでジンメル(後述)の精神的遺産相続人であるベンヤミンが述べる「法」Recht(権力の意味もある)は、暴力Gewaltと直に結びついており、それは「真の正義」Gerechtigkeitとは言い難いものだ、とされる。「法を決める暴力(法措定的暴力)」rechtsetzende Gewaltと「法を維持する暴力(法維持的暴力)」rechtserhaltende Gewaltは、合わせて「神話的暴力」mythische Gewaltと呼ぶべきもので、それが持つ「血の臭い」の一切をぬぐい去り、致命的に破壊するのが「神的暴力」göttliche Gewaltである——とベンヤミンは語る。

「生け贄」とは排除されるべき最低のものであり、それはおよそ「みじめで、醜くて、みっともない」ものである。
「生け贄」としてなされた「第三項排除」が「儀式」を伴う時、それは聖性を帯びる。生け贄はそのまま一切変質することなく聖化するので、「みじめで、醜くて、みっともない」まま聖なるものとなる。というか、「みじめで、醜くて、みっともない」ほどより高い聖性を帯びるのだ。だからこそ、「死にたくない」と叫ぶ商人が良い人柱になったのである。
シェルピンスキーの三角形
    こうした「第三項排除」は、社会の根源的な構造を形成する。それは右図のような三角形を構築してゆく。
 これは「シェルピンスキーの三角形」と呼ばれるもので、ある単純な法則によって形作られる「フラクタル」な図形だ。
 ただし、人柱のような生け贄の場合、その三角形の増殖は内側へと行なわれる。右図で言えば外側の大きな三角形が先にあり、それが内側への区切られていくイメージだ。
 その増殖をとどめ、外側へと第三項を排除するのが「死刑」であり、それは硬直したスタティックなシステムとして存在する。
増殖する三角形
    そこでイエスが死刑から蘇り、法が裏返って「暴力」という実体を見せると、第三項は左図のように外側へと増殖していく。
 イエスの「復活」はあらゆる「法」を裏返すものとして機能し、それまでの宗教にはなかった普遍性を獲得することとなった。

 ……と書いてみたが、実は今村仁司はイエスの処刑について全く触れていない。(もちろんシェルピンスキーの三角形についても)
 これこそ暴力の「オントロギー」として語られてしかるべきではないか、と思ったので僭越とは思いつつ書いてしまった。まあ、だいたい合ってんじゃないかなー、と思うけど。
 なぜ今村仁司はイエスを無視するのか?
 ニーチェが神を殺したから?しかし、ニーチェもほとんど出番がない。
 出番がないといえばジンメルもそうだ。のちに『貨幣とは何だろうか』で『貨幣の哲学』について触れるとはいえ、オントロギーではさっぱりだ。その元である「第三項排除」てのは、ジンメルのトライアド(三人集団)が発想の元なんじゃないの?
    左の画像はどこぞのお寺のもので、読むとついニヤリとしてしまう。なぜなら、ここに「社会」というものの根源が現れているからだ。
 ジンメルはトライアド(三人集団)をもって社会が始まる、とした。そして、トライアドは常に二対一になって安定する、という。その二対一の「一」から、社会というものが出来上がってくるのだ。「三人目」とは社会的存在であり、疎外されている何者かである。
 つまり、社会の根源にある暴力として「第三項排除」を言うなら、それはトライアドを構成するものではないのか。

 今村仁司はヘーゲル的止揚aufhebenではなく、マルクス的排除ausschaltenこそ重視すべきだとした。この「排除」は疎外Entfremdungと言い換えた方が通りが良いかもしれない。マルクス主義でも上の画像でもそうなってるし。
 考えてみれば、イエスの事例はむしろ「止揚」的に見える。
「排除」こそが重要であれば、余計な寄り道というものかもしれない。
 なぜ「排除」が重要かといえば、それが「貨幣」になるからだ。
 貨幣という社会の「三人目」について語るために、その根源に「暴力」があることを明らかにする必要があったのだ。



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