レヴィナス、貨幣の哲学 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス) |
ないしょないしょのないしょのはなしは「どれいのヒミツ」
というエントリーに書いた。
そこでは、眼を潰されたのは神への生け贄であって、のちに眼の周りに入れ墨をほどこした奴隷のことになり、それが「民」とされるようになったのではないか、ということをぐだぐだと述べた。
「目には目を」が「目には金を」であるなら、「大金持ちは万人の目をえぐりうる」ということになる──ということはレヴィナスが最初に指摘したわけでもないみたいだけど、このレトリックはとても印象的なのでレヴィナスの発言として採用したい。
すぐに気づくと思うけど、この比喩は「お金」という存在の暴力性を語りつつ、金によって沈黙を強いることの隠喩にもなっている。ヤクザ用語でいうと「金ぐつわをかまされる」というやつだ。
「民」というものは、すでに「お金」によってその眼を刺されている、と言うこともできるだろう。
ジンメル著作集〈2〉 貨幣の哲学 (1981年) ジンメル著作集〈3〉 貨幣の哲学 (1978年) |
「目には目を」の同害刑法 talio という、一般にハンムラビ式とか呼ばれるやり方は、実はそれほど原始的というわけではない。ちなみにハンムラビ法典には、「ものを借りたら利息を付けて返せ」とすでに書かれているそうな。
傷害・殺人について「お金」で賠償するという考え方はかなり古くからあるもので、イギリスにおいては国王に対する殺人賠償金ですら、二七〇〇シリングと定められていたという。
理由は単純で、人間の命が軽かったからだ。
…………
殺人賠償金の起源は明らかに純功利主義的であり、たとえまったく純私法的ではないとしても、かの私法と公法の無差別状態に、あらゆるところで社会的な発展が始まった無差別状態に属している。種族と氏族と家族は成員の死が意味する経済的損失等の補償を要求し、衝動的に手近な血讐の代わりにそれに満足する。
…………
人々はかけがえのない唯一無二の存在ではなく、殺されたなら相手を殺すよりは賠償金を払わせた方がよほどいい、と考えられていた。
それが奴隷ともなれば、賠償金は市民より安く、またその価格は奴隷の「相場」を左右した。
事情は女性についても同じで、それは結納金の金額に影響したし、また娼婦の価格もそれに影響された。
そして、労働者に支払われる賃金も。
また、こういった「値付け」は身分を形成する。インドにおいては殺し屋を雇って殺そうとした相手が殺し屋を返り討ちにしたので、殺し屋に払った金を賠償しろと相手を訴えた、というようなことも起きたそうな。無論、カーストの違いから起こった「喜劇」である。
現在このような前近代的「経済」は、二重三重に禁止されている。
むしろ逆に、法の側が社会経済の「相場」に沿う形になっている。
しかし、市場によって労働者の賃金が左右される時、その「命」の値段が量られることが往々にして行なわれる。
そうした現状について、「死刑」というものはそれを「ごまかす」働きしか持てていない。もはや同害刑法などありえないのだ。だがそれでも、その「ごまかし」の方を望むのは、やはり「第三項排除」の働きによるのだろう。
ジンメル、貨幣の哲学 |
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