2015年4月27日月曜日

ちさいとちいさいとちゃっこい

 娘がまだ赤ん坊だった頃、妻は毎日「ちゃっこいねえ、ちゃっこいねえ」と娘を見るごとに口にした。
「ちゃっこい」というのは、方言なのか妻の家独特の言い方なのかわからないが、私も口まねして「ちゃっこい、ちゃっこい」と言った。
「ちゃっこい」というのは、「ちいさい」というよりも良い響きがあった。
「ちいさい」は反対語として「おおきい」があり、他と比較する趣があるが、「ちゃっこい」はただ「ちゃっこい」のだ。
 それはときに「ちちゃこい」になったり、さらに「ちっちゃこい」になったりもした。


 この言葉の響きについて懐かしく思い出すうち、ふと八木重吉の詩の一節が心に浮かんだ。
…………
はつ夏の
さむいひかげに田圃がある
そのまわりに
ちさい ながれがある
草が 水のそばにはえてる
みいんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした
…………

八木重吉詩集 (現代詩文庫)
「ちさい」ながれがある、と表現されている。
別に誤植ではない。八木重吉の他の詩でも、「ちいさい」は「ちさい」となっている。「小さい」とかかれていても、小に”ち”と一文字だけルビが振られている。
 その表現がどのような由来によるものか、詳しくは知らない。知りたいようにも思わない。ただ、「ちさい」という音の連なりが、八木重吉の詩に特別なものを与えている。それはやはり、「ちいさい」とは違って他と比較することのない、ただただ「ちさい」もののように感じられる。

 八木重吉はもっと読まれてもいいと思う。
 二九歳で死んだクリスチャンの詩人だ。死因は結核だった。二人の子があったが、二人ともやはり結核で亡くなった。
 なんだかクリスチャンの読むものとでも思われているのか、あまり文芸雑誌でも取り上げられているところを見ない。
 落ち込んだときなどに読むと、うたれたように涙がこぼれる。



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