そこで村の人たちは相談して、人柱を建てることにしました。
人柱というのは、生きた人を埋めた上に柱を建てるやり方で、そうするとどんな風や大水にも負けない丈夫な柱になるのです。
人柱は誰でも良いというわけにはいきません。村人たちは村を通る道で、よそから来た人を捕まえることにしました。
最初に捕まえたのはよぼよぼの老婆でした。人柱のことを告げると老婆はこう言いました。
「もはやあと幾年も生きられぬ身であれば、このようにお役に立てるならどうぞこの身体、いかようにでも使って下され」
村人たちはがっかりして老婆を放しました。
次に捕らえたのは青白い顔をした若い女でした。人柱のことを告げると女はこう言いました。
「私は罪を犯して逃げている女です。このようなことになったのも御仏の思し召しでありましょう。どうぞ人柱にして下さいませ」
村人たちはがっかりして若い女を放しました。
次に捕らえたのは旅の商人でした。人柱のことを告げると商人はこう言いました。
「ま、待ってくれ。金ならやる。全財産くれてやる。里には女房も子供もいるんだ。見逃してくれ」
村人たちは大喜びで商人を人柱にしました。
丈夫な橋が出来上がり、この橋は戦前まで村人たちの役に立ったということです。
……えーっと、いきなりとんでもない話をしてしまったが、これは実在する橋の由来としてきだみのるが書いていたものだ。記憶だけで書いたので細部が違っているかもしれないが、だいたいの筋はあっていると思う。
人柱といえば、「キジも鳴かずば」の故事や毛利元就の「百万一心」など、ちょっと泣けるお話にしあがってたりするが、元々の元はこうした「暴力」性あふれるしろものだったのだろう。
今村仁司が「第三項排除」というとき、それはおそらく「生け贄」をイメージしていると思われる。
上掲の民話(?)などは、その暴力性が極まった例と言えよう。
そして、その暴力の痕跡が払拭された時、生け贄は逆に「聖なるもの」として立ち上がってくる。
日本の神道も古代においては人間を「生け贄」にしていたのだろう、ということはちょいと民俗学をかじれば容易に推察できるところだ。『神道集』で 綏靖天皇が朝夕に七人づつ人を喰った、などという話もそうした根っこからきたと考えられる。
それらはやがて神への捧げものとして、獣や魚、やがては稲などが備えられるようになった。
このような「第三項排除」を否定するものが仏教、なはずなのだが、日本ではそうそう上手くはいかなかった。
おまけに、明治時代には「廃仏毀釈」「神仏分離」なんてのが大々的に行なわれた。
近代天皇制の文化史的研究 ―天皇就任儀礼・年中 行事・文化財 (歴史科学叢書) |
一此度就御一新、石清水、宇佐、箱崎等八幡大菩薩之称号被為止、八幡大神卜奉称候様被仰出候事……(旧字は新字に改め)
新編明治維新神仏分離史料 |
この石清水八幡宮には今も続く「石清水放生会」という儀式があり、通常は仏教の放生の理念により、川に魚を逃がし、空に鳥を放っていた。
ところがこの年、明治政府からの命令で、魚を殺し鳥を殺し、神にお供えする事になったのだった。
「殺生禁断ノ儀モ、全仏法ノ所置ト奉存」てなわけで、「殺生禁断だあ?そんなもんは仏教の教えだろうが。これから日本は全部神道でやってくんだから、守るこたあねえ!やっちゃえやっちゃえ」という次第。
廃仏毀釈って、現代では今イチ実感ないけど、薩摩藩の地元鹿児島なんか徹底してやったもんだから、今でも県内の寺院は二、三軒しか残っていないんだそうな。
このくらい仏教と神道のコントラストがあらわになった事例もないと思う。まあ、仏教だって「捨身飼虎」の説話は一種の「生け贄」の変形と言えなくもないけどね。ただし、暴力性が早々と払拭されていて、あらかじめ聖性だけが用意されているかのようになっちゃってるけど。
ただこうした「危機」、すなわち明治維新という急激な社会変革において、暴力を抑制するはずの「文化」が、暴力を拡大再生産してしまうという、一つの事例としてあげられると思う。
……すんません、まだ続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿