やはり、昔とは違っている。衰えているということはもちろん無く、成長しているということでもなく、「近づいている」というのがしっくりくる。
何に近づいているかということもなく、ただただ「近く」なっている、ということだ。
正月に見た『フェルディナント・ホドラー展』の感想で、「無」はもともと、踊る人の象形文字である、ということを書いた。
古代における舞踊がどのようなものだったか、については想像力をめぐらせるしかない。ただ踊ることで、生(肉体)も死(精神)もリズムの中でめまぐるしく回転させて純粋な「力」を顕現し、それを「無」
甲骨文字の「無」 |
もしかすると、勅使川原三郎が「近づいている」ように見えるのは、その「力」へだろうか。
白川静はそれをただの誤伝であるとしたが、この漢字の巨人の説に対し、私一人くらい背を向けてもバチは当たるまい。
なんせこの日の舞台は、まるで甲骨文字の「無」が、そこから象形されたかのようだったのだから。
さて、舞台の終わりに、短いトークがあった。
ミハイル・バフチン 小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153)) |
そうした、作中の登場人物が独立した人格を持って語り出すことは、ミハイル・バフチンの「対話主義」を思い出させられる。作中人物はあくまで虚妄であり実在などはしないが、多面的で独立した人格を所有し、相互に「対話」するようになるのだ。
ダンスの最中に顕現する、自らの意志を離れて独立した「力」について、語ろうとしたのだな、と私は受け取った。
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