現在、フランスにおいてムスリムの存在が大きく取り上げられている。すでに人口の七%はムスリムであるという。
それを多いととるか少ないととるかはともかく、古代において人口の七〜八%が「異教徒」であった、超有名な「帝国」が存在する。
B.C.二世紀頃、セレウコス朝シリアの衰亡にともない、ユダヤ人はローマ帝国の支配下に入った。
やがて百万人がパレスチナに住み、三〜四百万人が地中海沿岸のローマ帝国領に散らばった。
ユダヤ「人」と書いたが、おそらくはユダヤ「教徒」であると思われる。当時、民族や人種といった概念は大して重要視されなかった。そこまで増えた理由は、彼らがおおむね「貧しかった」からだ。ユダヤ教徒は「唯一神のみ信ずる」という理由から、他のローマの神はもちろん、君主への貢ぎ物をしなかったが、ローマ帝国は鷹揚にそれを許していた。しかも、七日に一日は「安息日」として休んだ。帝国はこれをも許した。
ローマ帝国においてのユダヤ人は、商人ではなく細工・染物等の職人であった。しかし、一部は職業軍人となったし、さらにはローマ騎士、そして地方総督監察官、法務官praetor、元老院議員となるものもあった。
とは言え、何もごたごたがなかったわけではなく、「ユダヤ戦争」と呼ばれたものが二度あった。その二度目の「バル・コクバの乱」が起きた際、ハドリアヌス帝がその信仰の根絶を勅令した(A.D.135)。ローマ人がユダヤ人を目の敵にしたのは、この時くらいである。それすらも、三年の後には、アントニヌス・ピウス帝によって撤回された。
キリスト教への態度とずいぶん温度差があるなー、と思わされるが、キリスト教に対しても「ローマに無断で処罰しないように」と地方に何度も布令を出したりしている。
インドは独立する際、ムスリムは分離してパキスタンを立てた。現在も両国は対立し、インド国内においても、イスラムとヒンズー双方の原理主義によるテロが相次いでいる。
しかし、十六世紀のムガール帝国、とりわけアクバル一世以降の治世においてヒンズーとイスラムは融和し、ダーラー・シコーの施政下に至っては、それはもっとも平和な時期となった。
もともと「ムガール」とは「モンゴル」のペルシャ訛りで、モンゴル帝国の後継を自称し、公用語はペルシャ語にヒンディー語の混ざったもの、帝室の宗教はイスラムの「神秘主義」と呼ばれるもので、いわゆる原理主義のように堅いものではなかった。
ダーラー・シコーは「イスラム教もヒンズー教も元は同じだ」との書を著し、ウパニシャッドをペルシャ語に翻訳させ、複数の妃の一人はヒンズー教徒で、その妃との間に皇太子をもうけてた。
その時代、ヒンズー教の祭にムスリムが参加したりしたし、逆にムスリムの行事にヒンズー教徒が加わることも、ごく自然に行なわれていたという。
ムガール帝国の最盛期は、ダーラー・シコーを廃した弟のアウラングゼーブによるもの、と普通はされている。
確かに戦争がへたくそで大嫌いだったダーラー・シコーに対し、アウラングゼーブは戦争で勝ちまくって帝国の版図を最大にまで拡げた。しかし、アウラングゼーブはイスラム教スンニ派の原理主義にとらわれており、ヒンズー教徒を徹底的に抑圧した。
その死後急速にムガール帝国は衰退するが、その種はアウラングゼーブによって撒かれていたものと言っていい。
別にこれらの「帝国」を肯定しようとも思わないし、古き時代への憧憬を煽ろうとも思わない。
ただ、融和主義は国を栄えさせ、排外主義は衰亡に向かわせる、ということがここに表れてる、というだけのことだ。
その教訓を生かせないのであれば、人類は自らの社会を劣化させていくばかりとなるだろう。
ちなみに、ローマ帝国においては「ユダヤ人でありつつローマ人」な人間も多く存在し、彼らは割礼によって切り取られた「皮」を、それに似せた人工の布でおおってごまかしていたそうな。ほーけー手術の逆やね。
テルマエ・ロマエ コミック 全6巻完結セット (ビームコミックス)
0 件のコメント:
コメントを投稿