2015年1月25日日曜日

死刑と自己責任そして安楽死さらにはカント

 その国を「他者」と呼ぶならば、レヴィナスが怒るだろうか?
 北朝鮮ですら有している「同時代性」というもの、それすらも共有しない国家において、二人の日本人が「処刑」されようとしている。一人はすでに処刑されたとの報道があったが、まだ確定的ではない。北朝鮮の拉致被害者の死については疑う日本政府が、この国についてどのような態度をもって接すべきなのか、まごついてばかりいるように見える。
 さて、今「処刑」と書いた。マスコミもそのような表現で報道している。
 しかし、これは、はっきりとした「死刑」である。
 彼らは「スパイ」として疑われており、日本にだってそういう「スパイ」を極刑にする法律が存在するのだ。

【刑法第八一条】
外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。

 湯川氏と似たような人が似たような活動を日本国内で行い、逮捕された場合にこれが適用される可能性がないわけではない。ま、実際にはそんなすんなりいかないんだろうけど。
 そしたら、何やら興味深い調査結果が報道された。

「死刑制度」容認80%超 否定派を大幅に上回る 内閣府世論調査

 で、これの死刑賛成の理由ってのが「死刑を廃止すれば,被害を受けた人やその家族の気持ちが収まらない」「凶悪な犯罪は命を持って償うべきだ」「死刑を廃止すれば,凶悪な犯罪が増える」「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと,また同じ ような犯罪を犯す危険がある」という、まあ普通にそうだろうなという内容だ。
 でもさ、死刑を肯定するということは、今回の人質(?)の処刑についても、肯定的であるということになるんだが。
 これがいわゆる「自己責任論」というものの根っこだ、という性急な判断には与したくない。
 ただ単純に、想像力が欠如しているだけのようにも思える。
 その「欠如」とは何か、こうした事例を見るとよくわかる。

Belgian rapist and murderer to be put to death by lethal injection

 ベルギーで終身刑を受けている連続強姦殺人鬼が、注射での「安楽死」をもとめている、との報道。
 ベルギーでは、治癒の見込みのない難病患者等に対し、希望するなら「安楽死」することが法的に認められている。
 では、安楽死は、「被害を受けた人やその家族の気持ち」にかなうだろうか?「命を持って償う」ことになるだろうか?矯正しがたい人格を有する者を抹殺するだけなら、安楽死でも充分に目的は達成される。
 ベルギーのこの男に対しては、安楽死が許可されたという。
 果たしてそれは、「死刑」と呼べるのかどうか。

 さて、カントが死刑に賛成していたことは以前書いた
カント全集 第11巻 人倫の形而上学
 もういっぺん引用しとこう。
…………
 犯罪者である私に対して刑罰の法律を私が作成するとすれば、私のなかでそれを行うのは純粋に法的立法的な理性(homo noumennon可想的人間)であり、その理性が、犯罪をおかすことができるものとしての、つまり別の人格(homo phaenomenon現象的人間)としての私を、市民的統合体に属する他のすべての人とともにこの刑罰の法律に服従させるのである。言葉を換えれば、人民(これに属する各人)ではなく、法廷(公的正義)が、したがって犯罪者とは別の人が、死刑を課すのであり、社会契約には、自分を処罰させる約束は、したがって自分自身と自分の生命を処分する約束は、全く含まれていない。 
…………

 で、このときは書かなかったんだけど、どうもカントの論をすすめていくと、社会契約の外で力をふるう「国家元首にこそ死刑は必要とされる」ことになるように思える。でもさ、カントは自分で註釈して「王様を死刑にするなんてあり得ない!革命なんか認めない!」と、とーっても「わかりやすく」書いてるんだよね。

 哲学がやたらめったら難解な言い回しで書かれるようになったのは、カントの『純粋理性批判』からで、それまでは普通の言葉で書かれていたのに!とゲーテが文句を言っている。
 当時、出版物の検閲は常識であり、それが社会を根本から揺るがすような思想であれば、「難解」であることは良い隠れ蓑になっただろう。実際、『純粋理性批判』を読んだ検閲官は、途中で「これ以上読んだら気が狂う!」と投げ出したと聞く。
 ソクラテスの時代から、社会に対し真実を述べる者は「死刑」にされた。
 カントは周到にそれを避けたのではないか。 
  



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