調べてみると谷中の方にある結構有名な店のメニューで、上野の公園から歩いて十分ほどの距離にある。なので、ついでと言っちゃあ何だが、国立西洋美術館へ『フェルディナント・ホドラー展』を観に行くことにした。
ホドラーという画家については、今まであまりよく知らなかった。画集などで目にしたことはあったが、だいたい「象徴派」というくくりで、自分の脳内では「セガンティーニその他」の引き出しにつっこんでそのまんまになっていた。
しかし、今回たまたま展覧会に足を運び、己の不明を恥じることとなった。
ホドラーはアルプスを描いた一連の風景画の他に、人物を並べることで「リズム」を象徴した絵を多く描いている。
オイリュトミー(ユーリズミックス)(素晴らしいリズムという意味) |
ホドラーの絵画は「死」の影につきまとわれている。それは若い頃、両親兄弟をすべて結核で喪った経験から来ている、とされている。
「死」の落とす影に刻まれた「生」は、そこに「リズム」を顕す。人々はただそこにあるだけでダンスするかのように、「リズム」を刻むこととなる。
繰り返される生と死のリズムによって刻まれたダンスとは、すなわち「無」を意味するのではないか。
白川静『字通』から引いてみよう。
…………
【無】もと象形。人の舞う形で、舞の初文。卜文に無を舞雩〈ぶう〉(雨乞いの祭)の字に用い、ときに雨に従う形に作る。
…………
そして、「無」を有無の無の意味に用いるのは誤伝である、と白川静は書く。
しかし、ホドラーの絵を見るうち、「果たしてそうだろうか」という疑問がわいてきてしまった。
だって、ほら、
emotion |
「無」とは、ただなんにもないということではなく、あらゆるものを生み出す力を持った場のようなものだ、と禅宗では言っている。
生命の律動(リズム)がそれを表したとして、何の不思議があるだろう。
ホドラーに漢字の知識があったとは思えないので、まったく違った世界から究極の地点で共通するものを示した、ということになるのではないか。
これは並大抵のことではない。
やや興奮気味に美術館を出ると、本来の目的である「たまごサンド」を求めて娘と歩き出した。
ほどなくして目的地のカヤバコーヒーにたどり着き(右画像)、今回の動機となった「たまごサンド」にありつくことができた。
たまごサンドよ、ありがとう。
たまごサンド |
Ferdinand Hodler: 161 Masterpieces (Annotated Masterpieces Book 56) (English Edition)
ダンス第1番~第5番
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