それは、わざと顔を大きく歪めること。
眼や鼻の穴や口をこれでもかと大きく拡げたり、逆にシワシワにすぼめたりする。あごを左右に揺らす、眉をくっつくほどよせる、ほおをフグのように膨らます、などなど。
これ、外でたまたま鏡を見たときもやりたくなるので困る。
鏡の中には、実体がそのまま写し出されているわけではない。
左右が逆とかいうことだけではなく、そこに移されているものは遠近が圧縮されており、たとえば人体は、どこに重心があるのかわからなくなる。
どんなに磨き込まれた鏡でも、それは同じだ。そこにあるものは、どこまでいっても虚像でしかない。だから本当にそれが自分なのかどうか、ついつい確かめたくなって顔を歪めるのだ。
昨日(二〇一五年一月二〇日)、ずいぶん久しぶりに勅使川原三郎の公演を観た。
月は水銀―勅使川原三郎の舞踊 |
以前は両国の向こうまで行かなくてはならなかったが、知らぬ間にお隣の駅の荻窪に移ってきていた。なんともうれしい話である。
さて、久々の勅使川原三郎は、わかりやすく踊ってはくれなかった。
顔を白くぬり、どこか仕立てのおかしいジャケットとズボンをはいて、くぐもったバックミュージックのリズムの中、少しづつ身体を移し、切り替わる照明とともに表情をおおげさにゆがめていた。
その表情は、ときには無垢な若者のようで、次の瞬間には死に瀕した老人となり、哲学者のように怒ったかと思えば、狂人のように笑い、世界を見下し、塵におびえていた。
ただこれだけなのだが、どうもおかしい。
勅使川原三郎の立ち姿がおかしいのだ。そこに立っているはずなのに、どこに重心があるのかつかめない。そのため、そこに実体があるはずなのに、まるで鏡の中の虚像のように思える。
実体はとうに滅びているのに、鏡の中で虚像だけが生き延びてそこにある。
そんな風に見える。
同時代を生きているだけでうれしくなる、そんな芸術家がいる。
私にとって、勅使川原三郎はその一人だ。
また折りをみて足を運びたいと思う。
バウンド&アブソリュート・ゼロ ~勅使川原三郎のダンス世界 [DVD]
『平均律、バッハよりⅡ』の感想はこちらに
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