2014年11月7日金曜日

【そして誰もサムライになれませんでした編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

思出の記上,下(1950年) (岩波文庫)
…………
……「ーー最早(もう)詮(あきら)めた。卿(おまへ)を殺して母(わたし)も死ぬから、其樣(そう)思ひなさい。其とも口惜しいと思ふか。思はんか。愼太郎、さあ御(お)死に、此(この)短刀で御死に。卑怯者、さあ死なんか」
黒塗の鞘をはらつて氷の如き懷劍(くわいけん)をつきつけつきつけ母(はゝ)は、僕に詰め寄つた。
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近代デジタルライブラリーから
徳富蘆花の思い出話である。小説形式なのでやや盛ってあるかと思うが、似たようなことはあったのだろう。
 徳富家は元サムライだからやっぱ厳しいね、とそのまま受け止めたくなるけれど、こうまでしないと自らのアイディンティティが保てなかった、てことでもある。江戸時代にはこんなことしやしない。ふつーにでかくなれば、そのまんまサムライになったからね。

 明治になって「四民平等」てのが広まると、なんかしらんサムライになりたがるというか、そのマネをしたがるのが増えた。政府もそれを後押しした。苗字を与えたりとか、徴兵するのに都合が良かったもんで。
 逆に本物の武家はそのアイディンティティを根こそぎやられて(地租改正ね)、慣れない商売に手を出して失敗しては「武家の商法」なんて揶揄された。
 そして一九〇〇年に、新渡戸稲造@元五千円札の”Bushido: The Soul of Japan ”が刊行されてベストセラーになり、翻訳されて日本に逆輸入みたくして広まった。刀はサムライの魂とかいうのって、実はここから常識みたくなったのだ。
 で、新渡戸稲造自身は、あくまで海外向けにこの本を書いたので、これが日本でベストセラーになることについて、ずいぶん不快に感じていたらしい。
 新渡戸家は元武士だから、まるっきりウソではないけれど、やっぱ表向きに取り繕ったことばかり書いてしまった、と忸怩たるものを感じていたようだ。
 新渡戸の描き出した「武士」は、とってもストイックに己の美学に殉ずる存在で、その根源にある「土地」という「財産」とのつながりについては、きちんとは書かれていない。

 明治も後半になり、ちょんまげに刀を差したサムライなんか、お話の中でしか見られなくなると、大勢の人が「気分はサムライ」になりたがった。
 しかし、「土地」の生産性に対する超越的権能としての「名」という「財産」を世襲することができなければ、鵜の真似するカラスのごときものだ。
 そこで明治国家は、「財産」の代わりに「国」というものを愛するようにしむけた。
「愛国心」の始まりである。

 
  

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