2014年11月9日日曜日

【サムライを透してみるとわかる『主人と奴隷の弁証法』ってちょっと無理があるよね編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む
 ヘーゲルの哲学の中で、それに批判的な人たちも重要視するのが、「主人と奴隷の弁証法」だ。縮めて「主奴弁」なんて呼んだりする。
 自由ってのは、獲得するのに闘争を伴うから、勝った方が「主人」になり、負けた方が「奴隷」になる。奴隷が労働して主人がそのあがりをいただいちゃうわけだけど、労働によって外部の「世界」と関わるのはつねに奴隷の側なので、そのうち主導権が奴隷に移っちゃって主人は主人でなくなる、と、だいたいこんな話。身近でも似たようなことがあるな、と気づく人もいるだろうけど、ヘーゲルが唱え、コジェーヴが解釈した「弁証法」は、「社会」や「歴史」の流れの中に起こるものなので、ちょっと鬱陶しい。
 ここで素直に考える人は、「このあと主人は奴隷になって、奴隷が主人になるの?」と言うと思うけど、そういう逆転は起こらない。それは「主人A」と「主人B」が争うとそうなるけど、「主人」と「奴隷」はもともと欲望の在り方が別物だから、弁証法的に止揚されることはないんだ。実際は「主人」が「闘争」を根源とすることで、世襲を平和裡に繰り返そうとすると、その根源である「闘争」で自らが倒れてしまうのだ。と小難しく書いてみたけど、要するに「売り家と唐様で書く三代目」てわけで、闘争をもって存在するはずの「主人」が闘争なしに世襲されるならば、そこに浮き上がる「世襲」にその根源たる「闘争」をもとめられてしまう。なので、なーんもなしに「世襲」したがるひとは、「闘争」すなわち「戦争」が好きなんだよね。ここに「奴隷が労働を透して世界と関わる」ことはまったく関係してこない。


 こういう矛盾てのは、明治維新がサムライ同士、上級のサムライと下級のサムライの争いであって、それ以外はほとんど関わりがなかったことからわかる。いや、そりゃゼロじゃないけどさ、中心になったのを見ればそういうこと。
 大江戸三百年弱の平和が世襲の矛盾点を浮き上がらせていたけど、幕府はそれを巧みに先送りし続け、ついにペリーがやってきてそれができなくなった。
 サムライは自己の原点である「闘争」に立ち返ることで、自分たちを否定せざるをえなくなった。
 マルクスは「日本の方がヨーロッパよりずっと素直に中世っぽい」と書いたわけだけど、こういう面においても日本はずーーーっと素直に「闘争」している。マルクスはヨーロッパしか知らないから、やっぱりヨーロッパしか知らないヘーゲルの「主奴弁」を真に受けて、「階級闘争史観」を作り上げたけど、それを世界中に拡げるのはちょっと無理があった。むしろ江戸三百年の「平和」がサムライの矛盾をつのらせ、やがて自壊したことのほうが普遍性があるように思う。

 世襲とは何か。それは「財産」を世襲することに他ならない。いや、世襲しうるものが「財産」となる。それはこれまでの場合「土地」のかたちをとることが多かったが、資本主義の発達によって過剰に蓄積された金銭もまた、「財産」となった。
 世襲は本来闘争を根源となすもので、闘争によってのみその維持が可能とされる。
 ゆえに、世襲財産を有するものは、闘争すなわち「戦争」が大好きなのだ。自らの根源の欲望に無自覚なら、と一応注釈しておくけど。
 で、世襲をマネしたがる奴隷には「愛国心」が与えられるんだが……
 ここでまた次回

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