2014年11月3日月曜日
【サムライが首を取らなくなったのはどうしてか編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら
前回の続き。
秀吉という百姓上がりの男が天下を平定し、関白になることは、世の中の認識に大きな変化をもたらした。どのくらい大きいかというと、目に見えないくらい大きいので、変化した方もよくわかんなくなるくらいだった。きっと秀吉もわかんなかったろうし、同時代でそれがわかってたのは、たぶん一人もいなかっただろう。
ここでサムライというものの在り方を大きく変えたのは、刀狩りとかじゃなくて、太閤検地だった。
太閤検地ってのは、ただ地面の広さやら田畑のぐあいやらを調べるのではなく、大名の領地をいったん没収し、検地の結果に基づいて改めて下げ渡す、というものだった。ここにおいて、大名なりサムライなりに宛られた「土地」(領知)は、「所有」されることのない当座のものとなった。
『御朱印師職古格』などにおいても、所領を当て行われたものは、当座のものである、云々の記述が見られるという。
これは江戸時代にも引き継がれ、荻生徂徠も『政談』において、諸大名諸地頭は『土地ヲ被成御預、其土地ノ民ヲ御預ケ置ルル上ハ』と書いている。
まあとにかく、太閤検地によってサムライは土地からめりめりっと引きはがされた。秀吉の狙いは領主と領民の分離である。こうしてサムライたちの「一所懸命」という欲望の矛先は、己の「名」のみ向けられるようなったわけだ。ここにおいてサムライは、「首をとる」ことの動機を大きくそがれることとなった。
この変化について、結局は以前と変わらぬ所領を安堵されるのだからと、ほとんどのサムライたちは気づかなかったようだ。ゆっくりやったから、てこともあるけどね。天正十年(本能寺の変の翌年)に始まって、太閤秀吉が死んでもまだ終んなかったって言うし。
この成果は豊臣がわやになったあとも、家康が「座りしままに食」った。幕府が大名を取り潰したり、所領をぽんぽん取っ替えたりできたのも、前もって秀吉がサムライの在り方を変えてくれたおかげだ。
太閤検地以降、サムライたちはその「名」においてのみ存在を示し、その「名」において預けられた土地を支配した。それは土地に対する超越的権能であり、なんといってもそれは「名」とともに「世襲」することができた。
サムライが自身のその在り方を受け容れたのは、やはり下克上と、それ以前の長い長い戦乱、というか混乱が根拠にあっただろう。
で、また次回につづく。
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以下、続いて書かれたエントリーのリンク集。
読み進むにつれて触発され、「財産」が「世襲」される時に経済的な事象を越えた振る舞いをする、ということについて書こうと思いました。が、あまりに大きなテーマだったので途中で切り上げました。また勉強しなおして、取り組みたいと思います。
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