師走とともに『忠臣蔵』の時節がやってくる。
正直、『忠臣蔵』についてはよく知らない。知りたいとも思わない。
その昔、日本人の一般常識だったそうだけど。
今となっては、浅野内匠頭が吉良上野介を電柱で殴った、というところからしてよくわからないことになっている。力持ちだな、浅野。
つまらない冗談はさておき、私が知っていることと言ったら、吉良上野介は地元では名君で、治水工事なども自分で指揮し、領地に帰ると裸馬に鞍もつけずにまたがり、お供を一人だけつれて現場を見回っては、領民たちにもきさくに声をかけ、「赤馬(鞍をつけない馬)の殿様」と呼ばれて親しまれていたことや、浅野内匠頭は超のつくどケチでヒステリー持ちで、切腹となった日には領民たちが餅をついて祝った、ということくらいである。
今や、ちょっと歴史雑誌を読むような人なら、この程度の評価の逆転は常識の前になっているだろう。
大体これ、現代で言うなら「テロ」であり、敵討ちどころかとんでもない逆恨みである。それは現代の感覚で言うと、などという注釈などではなく、当時からそういう評価はあった。
徂徠の論は誰もが納得せざるを得ないものであった。討入りには「忠義」どころか正義も何も無い、むかついたから大勢で押し掛けてじじいの首をはねた、というのが実態である。
そんなことは、おおよその人がわかっていた。
わかっていたが、四十七士を支持した。
なぜかというと、それが徹底して理不尽だったからだ。
どのくらい徹底していたかというと、吉良を討ってから自分らがどうなるか、なーんにも考えていないくらい理不尽だった。そして、吉良を討つことが自分たちのどんな「得」になるのか、なんてなこともぜーんぜん考えてないくらい理不尽だった。
その「理不尽であること」が、暴力のあるべき理想的な姿なのだ。特にサムライにとっては。
だからこの物語は、幕政に反する一面を持ちながらも美しく飾られて語り継がれ、幕府自身すらも完全に否定し得なかった。
なんでそんな不合理なことが「日本の文化の根本」なんてなことにされてたのか。
それを「不合理故に我信ず」とかの一言で終らせるにはイカの何とかなので、ちょいと鬱陶しい話を続けてみたいと思う。
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