2014年11月10日月曜日

【平和こそが最も凄まじい威力を持つと言ったところで一区切り編】もしも西荻窪の古本屋がピケティの『21世紀の資本』(PIKETTY,T.-Capital in the Twenty-First Century)を読んだら

「平和こそが恐るべきものだ。それは表向きと裏腹に、地獄を隠し持っている」
Temo la pace più di ogni altra cosa: mi sembra che sia soltanto un'apparenza , e nasconda l'inferno.

    フェリーニの『甘い生活La Dolce Vita』の有名なセリフだ。
 なぜ「平和」というものを、ことさらに嫌悪したり、「お花畑」とか言って鼻で笑ったり、左翼とかレッテルを貼って遠ざけようとする人々がいるのか。彼らにはある共通点があるように思う。

 さて、その前にピケティに戻って(やっとかよ!)からにしよう。
 ピケティは二つの世界大戦で格差が縮まったことについて、何もいってないわけではなく、その原因について一応の推測は立てている。それは、死亡率が低下してきて長生きする人間が増えると、世襲財産を相続するのもまた老人となり、財産の増加が鈍って来るので云々、みたいな話。なんというかキレがなく、口に綿を入れて喋ってるような調子だ。
 ピケティは経済学者だから、あくまで経済の方面からそれを推測しようとしてるんだけど、こんな「長生きしすぎのじじいどもが増えたから減らそうぜ」みたいなことは、いくらグラフで説明したっておかしいと思うわな。
 この辺りでまた『ゴリオ爺さん』の助けを借りて、世襲財産のあれこれを語りだすんだけど、ヴォートランやラスティニャックについて語っても、今ひとつピンと来ない。ほんとはピケティ自身も、ここら辺からは経済学の範囲外だな、と感じてるので文学を持ち出しているんじゃなかろうか。

 さてさて、ここでこれまでの流れをまとめてみよう。
「土地」すなわち「財産」から切り離された庶民(無産層)には、それらに代わるものとして「国家」が差し出され、「愛国心」を持つことで国家を世襲、というかそれに近い感情を国というものに直結させる、ということにさせた。しかし、どうしたって自分がすかんぴんだという現実から目を背けるのは難しい。ついつい社会主義や共産主義に走りたくなる。
 世襲財産を所有する富裕層にとって、財産をもたない庶民が社会主義や共産主義に走るのは由々しきことだ。では、それをとどめるにはどうすれば良いか。彼らにもある程度「財産」を与えるのが一番効果があった
 すると「財産」を得た庶民は、それを世襲することを望み、「愛国心」に背を向けた。庶民の「愛国心」を煽ることで、自らの欲望から目をそらさせ、自分自身にすら背を向けようとする富裕層にとって、それは甚だ面白くないことだった。
「財産」は本来「闘う」ことで獲得するものであり、その存在はそれを継ぐものにとって、人の命よりも重要視された。「闘う」てのは、命を下位に置くことだからね。
 闘わずしてそれを世襲するものは、「財産」を受け継ぐ正当性をどこにも見つけられない。それでいて「財産」は相変わらず、人の命を凌駕してしまうのだ。
 闘いさえあれば、戦争にさえ関わっていれば、このような「財産」の在り方から目をそらしていられる。
 でもそれができなかったのが、戦後の日本だったってわけ。高度経済成長からオイルショック、バブルとその崩壊へと至る流れは、冷戦というものがあったとはいえ、その「財産」の正当性(無産層の愛国者である人々にとっては「国家」の正当性)が、常に問われ続ける状況になった。「それって、もしかして、無いんじゃないの?」と。

「平和」というものはそういうもの。誰もが耳を塞ぎたくなる「問い」を浮かび上がらせるもの。
 まるで最後の審判のように、それぞれの罪を天秤で量ろうとする。
 だからそれに対して、「うぜえ」だの「君は甘いね」だの「せいぜい夢見てろよ」だの「左翼消えろ」だの、必死で喚き立てるわけだ。
 自らの欲望から目をそらしていたい人たちは、こぞって「戦争」を欲するようになり、世の中はどんどん右傾化していく。
 それは彼らにとって「平和こそが恐るべきもの」だからだ。

 ちょっと最後駆け足になっちゃったけど、とりあえずここで区切りとしたい。

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以下、過去ログ

【予告編】

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