2014年6月4日水曜日

余ってるはずがないのに余ってないと困るので無理矢理に余らせてしまって足りてるはずなのに足りなくなるのだ

「骨の髄まで虚(うつろ)であり、無鉄砲だが意気地がなく、貪欲だが剛毅さはなく、残虐だが勇気はない」
…………

 このような人間は、時折見かける。というか、ごく普通の人間が、いつの間にやらこうした性質を帯びてしまったりする。
 これは、コンラッド闇の奥』に登場する、クルツという男についての描写である。この小説は映画『地獄の黙示録』の元ネタとしても知られている。
『闇の奥』を読むと、どのような人間によって植民地を経営されていたのか、よくわかりすぎて気持ちが悪くなるほどだ。これはコンラッド自身の経験が生かされており、下手なドキュメンタリーよりもずっと、当時の「臭い」をリアルに嗅がせてくれる。

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)  


さらに、この男についての論評を続ける。
…………
 彼らは何者も信じず、それでいて騙されやすく、人に言われれば何であろうとすぐ信じ込んだ。
 社会とその価値評価から吐き捨てられた彼らは、自分自身しか頼るものがなく、そしてこの頼るべき自分自身は無に等しいことが明らかになった。
 唯一の才能はデマゴーグの才、「過激政党の指導者」の才、ルサンチマンの才能だった。
 彼らはすべて「ルーレットから殺人まで何でも手を染める」人間だった。
…………
  全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義 全体主義の起原 2 ――帝国主義 全体主義の起原 3 ――全体主義
 上記の引用はハンナ・アーレント『全体主義の起原』に見られるクルツ氏の分析であり、さらにアーレントが「モッブ」と呼ぶ人種についての描写でもある。
「何者も信じないのに騙されやすい」という描写は、不十分でありながら的確だ。
 何も信じなければ騙されにくい、と普通は思ってしまうし、ご当人もそのように自己評価しているだろう。だが、「何も信じない」ということは「自分以外」というエクスキューズつきであり、「自分以外」とは「自分の欲望以外」ということだ。
 その欲望が「何か」と結びつくとき、それはあっけないくらい簡単に信じられてしまう。金とか神とか、そして「国家」とか。

 アーレントの言う「モッブ」とは、
…………
……ブルジョワ社会が窮屈すぎると言って自分から飛び出したのではなく、ブルジョワ社会から吐き捨てられたのである。彼らはブルジョワ社会の文字通りの廃棄物だった。認められた限界を彼らに踏み越えさせたのは彼らの冒険心ではなく、彼らの存在と労働力の余剰性であって、彼らはその犠牲だった。
…………
 つまりモッブは社会から脱落者の烙印を押されたものたちだったが、資本主義と帝国主義が彼らを必要とした。
 余った人間たちに余った資本を与え、植民地を開拓させたのだ。

 さて、なんでこうやっていろいろと「余って」きたかというと、ここで前回の『人口論』の話につながってくる。
「人口は等比数列的に増大するが生活資料は等差数列的にしか増大しない。従って、人間は自然法則的に不幸と悪徳のもとにおかれている」(今回はまともに書いてみた)
 だから必然的に人口は余る。
 じゃあ等差数列的(足し算的)にしか生活資料が増えないんだから、資本ってやつも足らなくなるんじゃないの?と、無邪気な幼子のようなことを考えてしまいそうになるけど、資本は常に過剰に蓄積される。
…………
 資本蓄積の無限の過程は「無限の権力」の保証を、すなわち資本蓄積のときに応じての必要による以外は何者にも拘束されてはならない権力蓄積の過程の保証を必要とする。
…………
 アーレントのこれには異説があると思うけど、拡大する権力は資本の過剰な蓄積を要請する、というのは帝国主義の分析としてはアリだと思う。ちなみに、アーレントの権力観は、ローザ・ルクセンブルグから強い影響を受けている。

 と、ここで現代の社会状況を見てみよう。
 我が日本国は急激に人口を減らしつつあり、他の先進諸国も出生率が「2」を割りつつある。
 生産は過剰になり、日本はデフレによって二十年が失われ、今EUがデフレの陰におびえている。
 であるにも関わらず、社会は相変わらず「余剰」の人間を生み出し、なぜだか余り物と烙印を押された人間は、「デマゴーグの才、『過激政党の指導者』の才、ルサンチマンの才能」をふるって、ネットを主戦場にして暴れ回る。アーレントの言う「モッブ」に似た者が、一般人の仮面をかぶりつつインターネットを闊歩しているのだ。
 このような状況に立ってみると、マルサスですら甘っちょろい「性善説」に立っていたのではないか、と思わされる。
 余剰の人間が生み出す悪徳が、道徳を映し出すことなどなかったのだ。
 貧困と悲惨が人口を抑制したわけではなく、人口が抑制されることで貧困と悲惨が消えることもなかった。「神の力、善意および先見に関する我々の観念」の一致を夢見たマルサスの願いはむなしく、人間はもっとずっと罪深い存在だったのかもしれない。

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