2014年6月28日土曜日

なぜフランスはいつまでも「おフランス」たりうるのか

ブラームス : 交響曲 第3番 | ミヨー : ブラジルの哀愁 | レスピーギ : 交響詩 「ローマの松」 (Brahms : Symphony No.3 | Milhaud : Saudades do Brasil | Respighi : Pini di Roma / Sergiu Celibidache, Orchestre National de l'ORTF)


 先頃、チェリビダッケ指揮・フランス国立放送管弦楽団のCDを入手し、妻が留守するたびに聞いている。
 すばらしい。とくに『ローマの松』の美しさ。今まで『松』はトスカニーニ最高!と思ってたけど、自分用ランキングを改めることにした。なんつーかもう、聞くたびに響きの美しさに酔っぱらってニヤニヤしてしまうのだ。ハタから見たらヘンタイもいいとこ。


 私が独裁者?モーツァルトこそ!
―チェリビダッケ音楽語録
  チェリビダッケは録音を嫌ったので、現在耳にしうる演奏は限られるが、とにかく超のつく完璧主義者で、そのままならベルリン・フィルで振っていたはずなのに、楽団員との軋轢が絶えず、カラヤンに追い落とされてしまったという過去がある。ちなみに仏教徒を自称し、「禅ZEN」の心で指揮している、とのこと。
 で、右のような語録も出版されているのだが、個人的に「芸術」に民主主義を求める趣味はない、というか、民主的な芸術なんざくそくらえくらいに思ってるんで、こういうのはファンとして嬉しい限りだ。
 それがなんであれ、芸術に「社会性」など不要だ、というのは言い過ぎかも知れんけど、すばらしい芸術はどこか社会から乖離しているのは確かだ。でないと、時代を超えて受け継がれていかない。カラヤンを今イチ好きになれないのは、その演奏が「資本主義的」だから。でも『指環』は良いと思うけどね。

 さて、「クラシック音楽」に接する時、みなさんはふとこんなことを考えたことがないだろうか。
 (いったい、この演奏にどれだけの社会的コストがかかっているのだろう?)
 楽団員のギャラや楽器の値段、ホールの賃料だけではない、他人に聞かせられるレベルの演奏家というものを育てるまでに、いかほどの「コスト」がかかっているか?それはちょっとやそっとで回収できるレベルのものではないはずだ。
 しかし、それでもクラシック音楽は演奏される。「芸術」にかぎらず、およそ「文化」というものは、資本主義の原理から外れた部分がなくては維持できない。資本主義においてのみ「文化」を語るなら、それはほどなくして失われる。
 そんなわけでか知らないが、「文化」の本場、花のおフランスで先頃こんな法律ができた。

仏議会で「反アマゾン法」可決、オンライン書店の無料配送禁止


 既存の中小の書店を守るため、「全会一致」で可決したとのこと。
 フランスって国はほんと、自己ブランド化にかけては躊躇がない。
 なんだかんだいって、他国が「フランス」という国に、何か特別な輝きを認めてしまうのは、こういうことをへーきでやるからなんだよね。アメリカだったら考えられない。
「文化」を守るのに、果たしてどこまで資本主義を抑えるべきか、てのは議論が分かれまくるところだけど、ともかくフランスはこうして自国の「文化」を優先することで、この世界におけるポジションを確保してきたのだ。
 日本も真似しろとは言わんけど、「文化」を守るってのはこれくらいの覚悟が必要だ、ということくらいは頭の隅に置いといてもいいんじゃなかろうか。あー、でも、ただの労働者に「アーティストを見習って」働けとか、元大臣が言ってるようじゃねえ……




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