The End Of The Affair (Vintage Classics)
自慢にならない話を自慢げにすることから始めよう。
最近店の行き帰りに、グレアム・グリーンの"The End of the Affair"(邦題『情事の終り』)を辞書なしで読んでいる。日本語訳の方は未読だが、読む必要を感じないし、恐らくは読まないだろう。なんたって、掛け値なしに「高校生程度の英語力で読める小説」で、 いちいち辞書を引くのなんかアホらしくなるくらいなのだ。
逆に考えると、こういう簡明な文章で名作をものにするところが、グリーンという作家の底知れぬところなのだろう。ついでに白状すると、グリーンの小説を読むのはこれが始めて。映画ですら、『第三の男』を見たことがあるだけだ。
さて、小説は二男一女の三角関係の話なのだが、 途中その女性サラの日記が出てくる。その中でサラは、神に何度も呼びかける。
…………
And believe me God, I don't believe in you yet, I don't believe in you yet.
…………
Oh God, if I could really hate you, what would that mean?
…………
I said to God, as I might have said to my father, if I could ever have remembered having one, Dear God, I'm tired.
…………
Dear God, you know I want to want Your pain, but I don't want it now.
…………
などなど。
この小説において、このようにして書かれる「God(神)」が重要な意味を持ってくるのだが、グリーンの意図した「God(神)」については置いておく。
それとは別に、このようにして"God"に"you"と語りかける文章を読むにつけ、なんだか奇妙な感覚に襲われるのだ。
神って……私のことか?
サラの憎む神は、ただ事の成り行きを見ているだけだ。見ているだけで何もしない。語りかけられても何も答えない。
そのような神とは、物語の作者ではなく、読者こそがふさわしい。
そう、サラが日記の中で"you"と呼びかけるのは、彼女たちがのたうちまわる様をただ眺めるばかりの「読者」であり、まさしくこの小説を読んでいる自分自身であるかのように感じられるのだ。
そうした感覚にひたるうちに、ふとある事に気づかされた。
過去とは、歴史とは、物語(historyにはその意味がある)であり、現代の我々はその「読者」なのだ。過去の人間にとって、遥かな未来に存在する私たちは、 ただ事の成り行きを見ているだけで、見ているだけで何もしなくて、語りかけても何も答えない、そんな存在だ。
そして、我々の存在もやがては過去のものになり、歴史の一部になるとして、それを「読む」視線ははるかな未来からやってくる。
まだ見ぬ未来には、我々よりもずっと知性に優れた存在が居るはずだ。少なくとも、いまこの現状を一つの物語として客観視できる程度には。
今まで何となく、西洋的な「神(いわゆるGod、とかいうんだっけ?)てのは、時空を超越した存在のように思っていたが、実は遥かな未来に、最後の審判のそのまた向こうに存在するはずの理想的な人類であり、その視線なのではないだろうか。それはこの世界を読む「読者」の視線でもある。だとすると、スピノザの汎神論がそれにそぐわなくなるのはわかるような気がする。
そして、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、「もうそんな遥かな未来からの視線、『読者』のことなんか気にするのはやめて、今この時を楽しもうぜ」てな感じのことなのだろう。
つまり、人間の歴史(物語)のかなりの部分は、「読者」の存在を気にしながら作られてきたのだ。
と、そんな流れで、次回に続く。
読者とは、滅んだ種だ(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
伝奇集 (岩波文庫)
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