太宰治:中高時代のノート公開
http://mainichi.jp/graph/2013/05/11/20130511k0000m040067000c/002.html
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52184770.html
その際の報道から、けっこうノートはらくがきだらけで、かなり「おちこめ青春!」な感じのものだったことがわかる。なんで捨てなかったのか、と普通は思うが、まあ捨てたくなかったんだろう。
こういう「死んだら棺桶にいっしょに入れて」系のノートというのは、おそらく十人集まれば十一人まで憶えがあると思う。で、なかなか踏ん切れなくてずっと捨てずに持ってたりする。それか、自分では捨てられなくて他人に捨ててもらおうと姑息なことを考えたりもする。太宰の場合は後者で、それがめでたく日の目を見てしまうハメになった、という筋ではあるまいか。よく知らんけど。でも、引っ込み思案なくせに目立ちたがりとか、矛盾した性格の持ち主はよく似たようなことをやらかす。そしてまあ、こういう人は例外なくむっつりスケベだ。なんでわかるかって?訊くな。察しろ。
さて、らくがきといえば、むしろ教科書に施すのが普通ではないだろうか。
私の教科書はらくがきでいっぱいだった。逆にノートはきれいなもの。ノートを教科書として練り上げ、内容を吸い取ったぬけがらのような教科書に好きなことを書きなぐっていた。
特に高校時代の教科書は、今思い返しても傑作だったと思う。いまさらながら、捨ててしまったのが悔やまれる。もし今もとってあったら、にやにやしながら眺めて楽しむことができるのに。他人には見せないけど。
そしていつも不思議に思うんだが、毎年毎年大量の教科書が処分されているとはずだが、らくがき入りの教科書が古本屋に持ち込まれることはない。ま、そりゃそんなもの買わないけどさ。でも戦前の教科書なんか、時代を感じさせるらくがきが入っていた方が人気が出るんだけど、そういうものも来ないんだよね。戦前はものがないから、教科書といわず、書物全般を大切にした、のかもしれない。なんで疑問形なのかというと、普通の本、とくに文学書なんか書き込みだらけのものがけっこうあるからだ。戦前のものでも。
古本屋にとって、本のらくがきは有難いことではないが、やはり本の余白ってものは、らくがきを誘っているようにも思われる。ひどい時には、図書館で本を借りたららくがきが山ほど、なんてこともある。
らくがきはおおむねその本の内容に沿ったものだけど、中にはまったく無関係なものもある。「ネギ30円 トウフ20円」とか、お買い物メモだったのだろうか。電話番号が書き付けてあることもしばしば。ここに電話をかけたらどうなるのだろうか、と思ったりする。思うだけだが。
「こんな本を買ったおれがバカだ」なんてのもあった。心情吐露系だと、『失われた時を求めて』の旧訳の余白に、自分が小説家をあきらめる理由が切々と書き連ねられていたこともあった。
あと、某大学教授の所蔵していた本で、分厚いドイツ語で書かれた本の遊び紙に、延々と自作ポルノが書かれていたこともあったっけ。こういうのはちゃんと元の持ち主がわからないように処分する。それが古本屋の仁義ってやつなので。
らくがきは楽しいが、ほとんどの場合、当人以外には楽しめないものだ。
なので、らくがきされた本は、よっぽどの例外でもなければ買取れない。
他人が見ても面白いらくがきが書けるようになったら、きっと太宰のようになれるんじゃないだろうかと思わなくもなかったりする。人生是不可解。
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