2016年6月30日木曜日

「不自由」とは何かもしくはダンスはどこまで自由なのかまたは勅使川原三郎『白痴』について




「〇〇が不自由」という言葉が使われだしたのはいつの頃からだろうか。
 それは概ね身体の機能が不完全な人について使用され、代わりに古来から無頓着に口にされてきた多くの罵倒語を消し去った。それについて少なからぬ人たちが「言葉狩り」だとの不平を口にしたが、それぞれに棲み分けることで今は落ち着いている。今でもテレビにのらない落語の高座などでは、昔のままに使用されているそうだ。
 しかし、目、耳、口、手足、などについては不自由という語がつけられたが、「頭」もしくは「知能」「精神」についてはそうならなかった。「頭が不自由」という表現は、他の場合とは逆におおよそ揶揄的に使用される。

   頭脳について、「不自由」ではなく「知的障害」「精神障害」などの言葉が用いられるのはなぜか。
 それはおそらく、頭脳の機能するところである「知能」や「精神」が、「自然」ではないというところから由来するのだろう。人間は自らの「知能」及び「精神」について、自然(動物)と人間を区別する指標である、と「自然に」考えている。それはアリストテレスの昔からそうだ。
 人間は「自然」を超越し、「自然」から遠ざかるほど「自由」を感じる。だから「自由」が大好きな自由絶対主義者(リバタリアン)たちは、だいたい「自然」というものについて胡散臭いと考えていて、自然農法や再生エネルギーなどなど、「自然への回帰」という事柄に対しケチをつけることに日々余念がない。
 その「自由」とは、社会契約的に定められた自由ではなく、「〜からの自由」というやつである。これは「積極的自由」と呼ばれたりする。「自然からの自由」を人間は常に求め続けている。
 自然の中での解放感に自由を覚えることは、ほとんどの場合錯覚である。
 つまり、人間の「精神」とは不自然なものであり、自然から遠ざかるそれが「不自由」であることは、定義としてなんとなくおかしなものになる、ということで避けられたのではないだろうか。
新潮世界文学 12 
ドストエフスキー 3 
白痴
   では、自由であるべき「精神」が不自由な「自然」になることは、ありえないのだろうか?

「自由」でありながら「自然」である、という奇跡の存在について、文学で表現したのがドストエフスキーの『白痴』である。
 てんかんの発作から白痴となったムイシュキン公爵(ドストエフスキーもてんかんの発作があった)は、「自然」のままでありながら「自由」な存在である。
 そのありえない奇跡は、ムイシュキンを聖なる存在にしてしまう。
 しかし、逆にそのことによって、周囲の「自由」な人間との悲劇に巻き込まれていくことになる。
 勅使川原三郎はダンスという表現によって、この「自由」でありながら「自然」であるという、究極の奇跡に近づこうとした。

 ダンスは果たして「自然」だろうか?
 鳥類などが行う求愛の表現などは、「ダンス」と呼んではいるが人間のなせるものとは全く違うものだ。
 バレエが美しい動作で自然を表したとしても、それは人間の思考を通した上での自然でしかない。
 そうした意味で、ダンスはどこまでも「自由」であると言うこともできる。
 そのことに気づいた土方巽は、立てない、歩けない、動けない、不自由な動作によって、身体の表現に「自然」を呼び戻そうとした。それは「舞踏(BUTOH)」として世界中に広まった。
 舞踏以後において、現代におけるダンスの表現は、「自由」と「自然」との間を常に揺らめいている。

 勅使川原三郎のダンスは、際限なく自由であるように見えながら、同時にひどく不自由な動作をとる。そうした融合性について、この上ない表現を体得している。
 おそらく、ドストエフスキーの『白痴』を表現するにおいて、これ以上のものは望めないのではないだろうか。
 終演後のトークで、「まだ続けたい」と語っていたので、その日を楽しみに待ちたいと思う。

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