もともとは十二世紀に成立したと思しき「恋愛」物語である。勇敢な騎士と姫との恋愛は、当時の流行でもある。実際に騎士は王女や王妃に恋をし、そのために命を捧げるのが本懐とされた。それの原型となったのが、騎士道物語である。ドン・キホーテも熱中し、まずは姫を探さねばと近所の村娘をドルシネア姫ということにした。迷惑な話やな。しかし、中世においてまず「物語」が先にあり、現実がそれをなぞって「恋愛」が形成された、というのは確かなことらしい。「恋愛」は十二世紀頃の吟遊詩人による「発明」品なのだ。
では、なぜその「発明」なんかで人は死ぬのか。別に珍しいことでもない、「お金」だって自然界ににはない人工の発明だが、人はそれによって死ぬ。現代の日本だって、毎年万を超える人数が死んでいる。他にも国家だとか名誉だとか、ひどいのになると「旗」だとか「帽子についてるマーク」とかのために死んだりする。受動的に自然死する(病死含む)以外の能動的な死ってのは、おおむね人工物によって引き起こされる。だから逆に、能動的な死を選択させる「恋愛」というものが人工物だということがわかる。
なぜ自ら創り出したもののために、自らの命を賭けるのか。それは人間を人間たらしめる解きえない謎である。解かれることのない謎は、永遠に語り継がれ、あらがいがたい「官能」を身にまとうようになる。
ワーグナーはその謎を、トリスタンとイゾルデによる「愛の二重唱」にこめた。
フルトヴェングラー指揮『トリスタンとイゾルデ』
解きえぬ「謎」という官能に満ちた物語は、オペラよりもむしろ舞踊にこそ向くのかもしれない。
今までにも多くのダンサーによって、『トリスタンとイゾルデ』は舞台で踊っている。
ダンスもまた「人工物」である。
しかもとびきり昔、まだ人間が言葉すらさだかならぬうちに身につけたものだ。人間による最初の「発明」ともいえるだろう。
求愛のためにのみ踊る動物とは違い、人間は「死」を意識することでもたらされる「官能」のうちに踊る。
人を人たらしめる原初の動作によってこそ、謎はくっきりとその姿を表す。
勅使川原三郎と佐東梨穂子のダンスは、男女の愛が死によって縁取られることで、そのありさまを変えていく様子をありありと映し出していた。
特筆したいのは佐東梨穂子の腕の動きで、これは『春と修羅』のときにも感じたのだが、まるで水のようにやわらかく、見るものを幻惑する。
それに対する勅使川原三郎のダンスは死の影による輪郭そのもののようだ。思えば、イゾルデの許嫁を殺したトリスタンこそは、本来イゾルデにとって死神そのものであり、それでもトリスタンを愛してしまうイゾルデの心情に、まったくの純粋性をもたらすことがこの物語の魅力なのだ。勅使川原三郎の踊りはその魅力を創り出して、さらにあまりあるものだった。
ちなみに、ワーグナーは『トリスタンとイゾルデ』を作曲中、スポンサーの奥様と不倫にふけっていたそうである。
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