2016年7月2日土曜日

ほんまでっか?ハイデッガー!【…はナチスだったんだよ編】

 えらい人だとかすごい人だとか、そういう尊敬を集める人が、実はろくでもない間違いをしでかしていたとわかった時、人はどのような行動をとるだろうか?
 多くの人はえらい人、いやえらかった人に向けて石を投げるだろう。
 しかし、少なからぬ人々がこのように言うだろう。
「それでも私は信じる」



「二十世紀最大の哲学者」ハイデガーはナチスだった。(ブログ本文はハイデッガーではなく、ハイデガー表記でいきます)
 それは、多くの人が知るところでありながら一度は許され、世紀末になって再度問題視された。
 ハイデガーが時代に流されて、政治的な無垢からナチスを支持「してしまった」のではなく、自ら積極的にナチスを支持した根っからのナチであり、さらにハイデガーの哲学の根本がナチスに通じるとされたからだ。
 それは、頑固者のお父さんが痴漢の常習犯として逮捕されたりとか、家族の大切さを教義とする宗教の教祖様がハーレムを作った上に離婚したとか、いつも校門に立っている生活指導の先生が女子高生と援交しただとか、TPPはやらないと言って政権を取った途端に積極的に推進したりとか、そんなことよりもずっとずっとずっとショックなことだった。主に、一部のインテリゲンチャにとって。
 なんたって、ハイデガーの哲学はあまりに広範囲に影響を及ぼしており、その哲学がナチスとイコールで結ばれてしまうのは、哲学の土台の半分がいきなり液状化してしまうという、そんな事態に陥りかねないことだったからだ。

ハイデガーとナチズム
    二十世紀も終り近くになってこの問題が再燃したのは、ヴィクトル・ファリアスという人が書いた『ハイデガーとナチズム』という本がきっかけだった。
 この本において、ハイデガーのフライブルク大学学長就任演説が改めて掘り返された。「ドイツ大学の自己主張 Die Selbstbehauptung der deutschen Universität」と題されたそれは、ナチスが興隆する当時非常な評判を呼び、活字化されて何度も再版された。
 この演説は、以下のような内容を含んだものだった。
…………………
ドイツの学生たちがすでに進軍を始めているからである。彼らが求めているもの、それは、彼ら自身の決定を確固たる学に基づく真理に高めてくれる指導者、彼らの決断をドイツ的に働く言葉と行為の明晰さに引き入れてくれる指導者である。
…………………
 《大学の自由》というものは、大学から放逐されねばならない。というのも、こうした自由は、否定的なものでしかないゆえに、真なるものではないからである。(中略)そこから、将来、ドイツの学生の義務と奉仕が展開される。
……………………
国家は、知と能力で固められ規律によって引き締められた出撃体制、最後の一兵までの出動を要求する。この義務が将来学生の現存在全体を包み込み、これに浸透するのは、兵役によってである。
………………………
しかし、我々は、我々の民族がその歴史的負託を果たすことを望んでいる。
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 そして、プラトンの『国家』の四九七dからの引用だとして、次のような言葉で締めくくる。
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偉大なるものは全て、嵐の中に立つ…Alles Große steht im Sturm…
プラトン『国家』独語版
………………………
 この最後のプラトンの引用について、ギリシア研究者や弟子のカール・レーヴィットは「おかしな訳だ」と疑問符をつけている。本来なら「不確かである」「腐りやすい」「成し遂げることは難しい」とかいうニュアンスになるはずだ、と。英訳でもFor all great things are precarious and, as the proverb truly says, fine things are hard.とされている。ハイデガー以外の独語訳だとDenn alles große ist auch bedenklich, und wie man sagt das Schöne in der Tat schwer.である。なんというか、普通だ。
 しかし、ハイデガー訳の調子のいい一節は、ナチスのジャーゴンとして流通し、ヒトラーを崇拝する学生たちの多くが口にした。
 しかもこの演説の際、その内容もさることながら、ハイデガーはイベントにおいてナチス式敬礼(あの右手を斜め上にあげるやつ)をさせたり、「ジーク・ハイル」と唱和させたり、ホルスト・ヴェッセル・リート(ナチスの党歌)を歌わせたりして、いろいろと物議をかもした。
 さらにその上、ハイデガーは学長としての権限を振るい、ユダヤ系の講師や教授全員を休職処分にしたり、アーリア血統を調査する旨のアンケートを全教官に強制したり、入学する際両親及び祖父母についての血統を申告させる学則を作ったり、大学講義の始めと終りに「ハイルヒトラー」とわめいてナチス式敬礼をさせたり、フライブルク大学に人種局を作ってナチス親衛隊員を局長に招いたり、国家への労働奉仕を義務付けたり、ナチスに関わる学生には授業料減免や奨学金を施し、全学生に「国防軍事科学」や「人種学」を必修にした。

 ハイデガーは戦後、「いやー、あん時は仕方なかったんだよ」風な言い訳を残しているが、どう見てもノリノリである。
 だいたいこの演説をする以前から、ハイデガーはナチス支持の学生たちの間で人気があった。
 そして、フライブルク大学学長に就任するや、正式にナチスに入党した。登録はバーデン地区、党員番号3125894である。終戦まで党員のままで、一度も遅滞することなく党費を納めていた。以前入ったことを忘れてもう一度入党したカラヤンのようにいい加減ではなかった。(多分、カラヤンは党費を払ってない。当時ひどく貧しかった)
ハイデガー拾遺―
その生と思想の
ドキュメント
    ハイデガー正式入党の報は、ナチス党員向機関紙「アレマン人 Der Alemannen(ドイツ人の別称)」においてこのように報道された。
……………
 ドイツ労働の日、民族共同体の日に、フライブルク大学学長マルティーン・ハイデガー教授は正式にナチ党に入党した。我々フライブルクのナチ党員はこの行為に遂行された革命と現在の勢力関係の外的な是認以上のものを見る。我々はマルティーン・ハイデガー教授がその高度の責任意識とドイツ人の運命と将来に対する配慮とにおいて我々の壮大な運動の核心部に立っていることを知り、また教授がドイツ的思想を決して隠さなかったこと、年来、アードルフ・ヒトラーの党の存在と権力を求める厳しい戦いをこの上なく効果的に支援していたこと、ドイツの神聖な事柄のために犠牲をいとわなかったこと、ナチ党員なら教授の家のドアをノックして決して無駄ではなかったことを我々は知っている……
(一九三三年五月三日、第三巻一二一号)
…………………
 大向こうから「待ってました!」と声が聞こえそうだ。この機関紙ばかりでなく、ブライスガウ新聞などでも同様にして報じられている。

 一九三三年六月、ハイデガーはカール・ヤスパースの元を訪ねた。
 ヤスパースが「ヒトラーのような無教養な人間にドイツを統治させていいものかどうか」とこぼすと、ハイデガーは「教養など全くどうでもいいこと……彼の素晴らしい手を見てください」と返答した。
 長年の盟友であったヤスパースとは、これ以降袂を別つことになる。
 そして、戦後ほどなくして、ヤスパースはハイデガーについてのリポートを提出する。提出先はフライブルク大学政治浄化委員会のエールスカースである。
………………
……ハイデガーの思考様式は、私にはその本質からして自由を欠き独裁的でコミュニケーションを欠いているように見えるのだが、今日、教育効果の点では致命的であろう。私には、思考様式の方が政治的判断の内容よりも重要に思われる。政治的判断の攻撃性はたやすく方向を変えうる。彼のうちに真正の再生が起こらない限り、それも著作において明らかにならない限り、私見によれば、そのような教官は、内面的にはほとんど無抵抗な今日の青年の前に立つことは許されない。……
………………
 しかし、ハイデガーは一九四九年七月にフランス軍政当局から「服従することなき同行者」という程度の判断を下され、ごく短い教職禁止期間が設けられただけで済んだのだった。


 次回に続く。

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