2015年9月25日金曜日

【神を乗り越えることは可能だということか編】それからエデンの東へ行ったのだった

East of Eden
「アメリカ文学なんてものはね、スタインベックとヘミングウェイだけ読んどきゃいいんです」
と、その時教授は言い捨てたのだった。
 それは大学の一般教養の「英文学」の授業でのことで、その教授の顔も名前も授業内容も憶えていないが、この忌々しげな一言だけは、はっきりと耳に残っている。英文学をこよなく愛する教授にしてみれば、本当はアメリカに「文学」が存在することなんざ認めたくもないのだが、この二人だけはどうしても無視できない、というわけだ。
 そして、それは今も似たような状況が続いている。なんせ、アメリカはトニ・モリスンが受賞して以後、もう二〇年以上ノーベル文学賞が出ていないのだ(二〇一五年現在)
 ちなみに、ヘミングウェイもスタインベックもノーベル文学賞を受けている。



創作日記―“エデンの東”ノート
    スタインベックは『創作日記―“エデンの東”ノート』にこう記している。
…………
ヘミングウェイの愛好者がこの本を好むだろうとはぼくには思えない。特に若い人たちというのはただ一つの種類の本しか好まないことに、君も気がついているかもしれない。彼等は好みを一種類以上に広げることはできないのだ。だがこの点では、ぼくにも同じ欠点がある。
…………
 そうした「頑さ」について、スタインベックは自覚があったようだ。
 しかし、映画『エデンの東』はヘミングウェイのファンの心もつかんだように思える。そして、
…………
……ぼくたちが彼等(註:ティーンエイジャー)のそばにいることを、ぼくたち以上に彼等が望まないからだ。
…………
 とスタインベックは嘆息するが、映画の方は多くのティーンエイジャーのハートに突き刺さり、ジェームス・ディーンは伝説となった。

 エリア・カザンは第一次大戦時を舞台としながらも、親子(世襲)の破綻を描いて、これからのアメリカの「若者」像を浮かび上がらせてみせたが、スタインベックが原作で長々と語るのは、二つの家族の長大な物語と、「果たして原罪はどのように乗り越えうるか」という「問い」である。
 前回述べたように、映画の方は小説の第四部でしかない。
      

 この小説のポイントは、聖書に記された原罪、人類最初の殺人であるカインによるアベル殺害と、その中にはさまれる「主」(神)の言葉が英訳では二種類あり、そのいずれにもよらない解釈をするところにある。その辺は実際に小説を読むか、『スタインベックの世界』あたりを読んでいただければ詳しく知ることができる。
 
 実際、この聖書に記された人類初の殺人の物語には奇妙なところがある。
 神は自らへの捧げものを、穀物より家畜を嘉したまい、カインはアベルを殺す。カインは神に殺されることを覚悟したが、神から印を与えられ、カインを殺すものは七倍の復讐を受けるとされ、エデンの東にあるノドの地に住まい、妻を得て子孫を残す。カインは「どんなに耕しても実りを得られない」という呪いを受けていたので、狩猟採集でもしていたのだろうか。
 ここにおいて神は、土地の所有に対する「暴力」を象徴しているように見える。
「生け贄」を神に捧げる行為は、その土地の所有、細かく言うとその土地の生産性を我が物にするためのものである。暴力は土地を起源としているのだ。
 のちに神は「約束の地」を示すが、ユダヤ人たちはそれを手に入れるのに血みどろの戦いをくり広げることとなる。
 ジェームス・ディーンが演じたキャル、本名ケイレブの名は、約束の地にたどりついたヨシュアとカレブからきている。
 トラクス家は広大な農場を所有しており、兄弟の葛藤はその所有をめぐるものだ。
 土地を所有することは神の承認を得ることと同じだ。
 しかし『エデンの東』では、暴力を嫌悪しつつ土地を所有することを求める。
 そのためにトラスク家は、原罪を乗り越える必要に迫られる。
 それはすなわち、神を乗り越えることになるのだが、同時に神はそれを嘉するはずだと考えられるようになる。
 最期の「ティムシェル」は、アベルを憎悪するカインにかけられた神の言葉だが、それに新たな解釈を加えることで、原罪を乗り越えうるとする。

 スタインベックのこの小説は、原罪を乗り越えることをいいつつ、「所有」について新たな意味を与えているように見える。
 それは人間の意志をこそ「所有」の根源とすることで、暴力の必要性を失わしめるというものである。
 スタインベック自身が、どこまでそれを意識していたかはわからないが。


ジョン・スタインベック事典 (アメリカ文学ライブラリー)

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