2015年9月19日土曜日

【世襲を否定することなくその破綻を描くということ編】それからエデンの東へ行ったのだった

漱石自筆原稿 それから (複製)
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……彼は自ら切り開いたこの運命の斷片を頭に乘せて、父と決戰すべき準備を整へた。父の後(あと)には兄がゐた、嫂(あによめ)がゐた。是等と戰つた後には平岡がゐた。是等を切り抜けても大きな社會があつた。個人の自由と情實を毫も斟酌して呉れない器械の樣な社會があつた。……
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 『それから』中で珍しく漱石が説明的に書いた部分である。この小説が単なる純愛ものと受けとられるのを危惧したのかもしれない。
 漱石はここまで、主人公の心の動きを、読者がごく当たり前のこととして受け止められるように書いている。
 そして読者は、その「当たり前」と思えたことが、いつの前にか「社会」と対決するような、「当たり前ではない」ことに変貌していることに気づかされる。

 明治という時代、金持ちはずっと金持ちのままで、貧乏人はずっと貧乏人のまま、というのはごく「当たり前」とされていた。一部のインテリを除いて。
 そうした格差の固定化は、「世襲」によって行われる。
 金持ちに生まれると金持ちのままだというのが「世襲」なら、貧乏に生まれるとずっと貧乏のままというのも、実は「世襲」なのだ。
 その「世襲」は「当たり前」のことだと思われているが、漱石は『それから』を書くことで、その「当たり前」は当たり前でなくなることを読者に伝えようとしている。一見分かりづらく、こっそりと。
それから』において、「世襲」はまったく否定されていない。ただ淡々とその破綻を描いているだけだ。
    読者はその破綻に、不意に立ち会わせられることとなる。
 それはお嬢様と書生の悲恋小説などよりも、ずっと根本から読者の世界観をゆさぶるものだ。
 これは、社会を守ろうとする側からすれば、非常に危険な要素を含んだ小説と言える。


洋画キャビネ写真 [エデンの東より
ジェームス・ディーン]
リバイバル公開版写真
エデンの東』においては、ジェームス・ディーンことキャルは、「世襲」に積極的に見える。
 「戦争を利用して」相場で儲けた金を、父親の誕生日にプレゼントしようとするくらいだ。
 そしてそれは、とても「良いこと」のように思ってもいる。普通の感覚の持主である、ヒロインのアブラも賛同して協力する。
 しかし、案に相違して父アダムから激しい拒絶を受ける。
 キャルにはそれがどうしてなのかわからない。
 そして、観客にもわからない。
 いや、よく考えればわかるのだが、一瞬わからなくなるようにエリア・カザンが演出しているのだ。それによって、観客は主人公とその「戸惑い」を共有することになる。
 父アダムは敬虔なプロテスタントであり、自らの財産は正当な労働によって得たものだと考えている。
 そして彼の跡を継ぎ、財産を「世襲」するものは、その正当性を継ぐものでなくてはならない、とも考えている。
 キャルはまったくの善意から、その「正当性」が嘘っぱちであることを暴いてしまう。相場で儲けた金を渡すことは、すなわち「お前が一生懸命守ろうとしているものは結局このカネと同じじゃないか」と突きつけるようなものなのだ。
 
 父アダムは多くの嘘をついている。
母は死んだ、と息子たちに信じさせていたが、実は生きている。
 戦争に反対し、長男アロンも反戦主義者だが、その実、徴兵委員を引き受けている。
 子どもを徴兵されると困るとの懇願を断りながら、自分の息子たちは兵隊に送ろうとしていない。などなど。
 アダムは息子にその財産を継がせるとともに、その嘘をも引き継がせようとしている。
 しかしそれは、社会にとって正当なこととなのだ。映画ではそう描かれている。
エデンの東』の中で、エリア・カザンは何も否定していない。
 観客はただ、積み上げられた「世襲」のトランプ・タワーが、自らバランスをくずして形を失うのを見守るだけだ。

 と、このように漱石の『それから』と映画『エデンの東』は類似した構造を持っている。
「世襲」というシステムが自ら崩れ落ちる様を写したこれらの作品は、読者や観客にその社会観の変更をせまるものとなっている。



 

ちょっと別な話でもって続く

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