『エデンの東』を観た後、映画の『それから』を観てみたくなった。貸しビデオ屋においているか危ぶんだが、近所の図書館に置いてあった。亡き松田優作主演、ヒロインは藤谷美和子、友人役が小林薫で、あと風間杜夫やイッセー尾形、今何やってんだろかの羽賀健二まで出演している。
監督はあの森田芳光。
この人にはへんな形容詞よりも、ただ「あの」とつけておきたい。
漱石を文章以外で表現するのは難しい。
作品の魅力が、そのストーリーよりも、情景の描写と人物の心理描写の的確さと、文の小気味よいリズムにあるからだ。映像にしたり、舞台にのせたりすると、たちまちその魅力が色あせてしまう。
森田はそれを避けるためか、『それから』の世界をどこか夢のような、まったくの作り事の世界に塗り替えている。
映像はどこにピントが合っているのかよくわからず、遠近感がどこかしらおかしく、観るものから現実感を奪う。
そんな中、主人公とヒロインの逢い引きだけが、いや、無造作に置かれた百合の花だけが、不思議な現実感を持っている。この百合は、漱石の原作でも、印象的に使われている。
あと、これは気のせいじゃないと思うんだけど、登場する人物の「洋服」の仕立てがどこかおかしい。和服は普通に美しいのに、洋服はフォルムがどこかズレているように感じる。それがまたさらに、この映画、いやその舞台になっている「明治」という時代を、作り事のように感じさせている。
原作はそのタイトルからわかる通り、キリスト教的な「原罪」について扱った作品とされる。
映画の方は、原作のテーマを引き継ぎつつ、ピントをキャルにしぼることで、時代の変遷の中の家族の物語になっている。
これが名画となったのは、ひとえにエリア・カザンの力によるところが大きい。トラクス一家は渓谷にエデンの園を築こうとしたわけでもなく、アロンは戦死しないし、父アダムは原作のように「ティムシェル」とつぶやいて死ぬこともない。また、そのティムシェルについて解釈する、中国系移民のリーも登場しない。
ティムシェルはヘブライ語で、汝能う、you may、望むならそれはできる、というような意味だ。私個人としては、ここは堀辰雄ばりに、「汝生きめやも」としたいがどうだろう?
おっと、話が突っ走ってしまった。
ここで次回、ちょっとスタインベックの話をしたい。
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