無口な人間がなんで無口かというと、自分相手にしゃべるのに忙しいからだ。
しゃべるといっても何かを話すわけではない。頭の中をシグナルの塊のようなものが、拡大したり収縮したり、繁茂したり壊滅したり、成長したり退縮したり、明滅したり散開したり収斂したり回転したり硬直したり、いろいろと忙しいのだ。
だから、普段じっと黙っている人が語りだすと、とても長くなる。
なぜなら、無意識の中には「時間」というものがないので、因果というものもなく、論理というものもなく、無限に語り続けることができるからだ。いや、「無限」というのも時間に関わる概念なので、「無時間」にとでも言っておいた方がいいのか。ジャック・ラカンによれば無意識は言語のように構造化されている。構造は時間を持たないのだ。言語とて、システムの中で配置されなければ時間を持つことはできない。
ドストエフスキーの登場人物も無口で、そしてよくしゃべる。しゃべりだすと止まらない勢いでしゃべる。読んでいて、ずいぶん時間が経ったように思えても、まだ一時間と立っていなかったりする。ドストエフスキー自身もそういう人だったのだろう。小説の中で時折時間が混乱していることがある。話しているときには時間が止まってしまうタイプなのだろう。
ソクラテスはよく立ち止まって動かなくなることがあったという。『饗宴』にもその描写があって、宴会にソクラテスが遅れていく理由になっている。ソクラテスは「ダイモーンの声を聞いている」と、そのことを表現した。ときにそれは、何日も続いたという。
一昨日観た勅使川原三郎『神経の湖』は、そうした無意識の中の動きを思わせるものだった。
おしゃべりが聞こえる「世界」から、ゆっくりと沈んでゆくにつれ、時間は意味をなくし言葉はただ構造を形成するパーツになってゆく。
確かに、それを表現するにはダンスが良さそうだ。
言葉は「言葉そのもの」を表現できないのだから。(これもジャック・ラカン)
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